喜び、歓び、慶び、悦び、つまり嬉しいということなのだが、

 

喜びは喜びでしょ、で終わっている現代人の私には、文章を書く教養で漢字を変えていても、

 

日常的にここまでの繊細さで使い分けていない。従い、その違いを得てして見逃す。

 

『「歓喜」というは、「歓」は、みをよろこばしむるなり。

「喜」は、こころによろこばしむるなり、

うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。』一念多念文意

 

『この信心をうるを慶喜というなり。慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。

慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。

喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。

うべきことをえてのちに、みにも、こころにも、よろこぶこころなり。』唯信鈔文意

 

歓喜(かんぎ)、慶喜(きょうき)それぞれ時制が違う。それは分かる。

 

歓喜は、ヤッタ〜、イェ〜に近いのか、感情的な嬉しさが込み上げてくる感じで、

 

浄土に生まれることができる、仏になれると心底腑におちたなら歓喜なのだろう。

 

唯円は、歎異抄の記述でそういう歓喜が起こらないと親鸞に告白していた。

 

顕浄土真実教行証文類序では、三度「慶」と書かれている。

 

遇獲行信、遠慶宿縁。

爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。

敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。斯以慶所聞、嘆所獲矣。

 

出会えたことを感謝している境地のような、噛み締めるような慶びという感じがする。

 

喜びとしたときに、どうも喜ぶ自我がそこにある気がするが、

 

むしろこの慶びには、自我を超えた状態の自覚というテイストがある。

 

勝手な解釈だが、自我が喜ぶことや、喜べる自我に到達したことを以て

 

何か満足できたとしても、意味はない。自分が高められたことにもならない。

 

金剛般若経での釈迦と須菩提との会話を読み進めれば、そういうことがかなり自明になってくる。