天親による意識(仮想的な性質の存在)を説く三十の偈頌

 

1.   意識の特徴

意識から離れた抽象的な外的現実の存在があるのかないのか。もし意識の仮想的な性質しかないのなら、なぜ世俗的な教えも聖なる教えも、同一性と目的の存在について語っているのか。同一性(Identity)と目的(Purpose)は、隠喩として機能し、さまざまな種類の心的イメージとして進化する仮説物といえる。その進展する変形のありかたを通して、意識がそれらを顕在化させることができる3つの方法がある。

 

2. 意識の顕在化における3つの方法

意識の顕在化には3つの方法がある。すなわち、潜在意識のさまざまな熟成種子(ripening seeds)、自己利益の勘定計算、そしてこれら2つを、想像上の対象を区別することによる意識の仮想的な枠組みと組み合わせることである。

 

3.潜在意識の記憶の貯蔵について

第一にある、意識の異なる熟した種子の特徴として、潜在意識の記憶の貯蔵庫があり、そこから意識の種子のあらゆる異なる熟成がある。潜在意識であるがゆえに、完全に理解することは不可能である。つまり、なに取り込まれ、保持され、それがどこにあり、そして知覚を仮想的にどのように組み立てているのか。

 

4.遍在する5つの原動力

それは常に5つの偏在する原動力に関連付けられる。それらは接触、注意、感情的感覚、精神的関連、意図する下心である。このうち、差異なく偏りのない感情的感覚のみしかない。それは認知プロセスを覆い隠すものではなく、道徳的に未定義である。その接触やその他の原動力も同様である。それは急流のように絶えず渦巻いており、この乱流は、真に霊的に価値のある存在の地位を獲得した人々によってのみ完全に開放される。

 

5.自己利益の勘定計算をする意識

第ニにある、自己利益の勘定計算は、どんどん進化しその前の対象としての記憶の潜在意識の貯蔵庫とつながることに依存しており、その本質は自己利益の意図的な計算によって特徴付けられる。

 

6.4つの原始的な感情障害

それは常に4つの感情障害と組み合わされている。つまり、自己中心的な妄想、自己中心的な信念、これに組み合わされる自己中心的な自尊心と自己中心的な偏愛である。それはまた、接触や残りの5つの遍在する原動力に直接関連している。

 

7.本質的実存(existential in nature)

それは意識の認知過程を覆い隠すが、本質的に実存的であるがゆえに、道徳的に定義されておらず、生じるものは何であれ適応し、それと関連づけられる。そしてそれは次の場所には存在しない。すなわち、真に精神的にふさわしい存在、解決への完全に超越的な洞察力、この世を越えた至高の道筋である。

 

8 想像対象を区別する心を伴う五感覚的意識

第三にある、想像上の対象を区別することによる意識の仮想的な枠組みとの組み合わせについて、

それは6つの部分で区別される。その本質は、心的対象と感覚的対象を、善、悪、善と悪、善でも悪でもないという区別によって特徴付けられる。

 

9進化する意識の現れ

6つの進展する意識の表れとして、心的状態の6つのカテゴリーにおいて、それらに直接関連する原動力を持つ。これらは、遍在する原動力、特定の物体を区別する原動力、高潔な精神状態、一次感情障害、二次的な感情障害、未分類の原動力である。

これらの精神状態はすべて、3種類の感情的感情に直接関連している、つまり、満足感の中に喜びを感じること、苦しみの中に見られる痛みの感情、そして快楽も苦痛もない感情である。

 

10,初めにある遍在する原動力意識は、あらゆる投影に見られる遍在する原動力である。それらは、接触、注意、感情的感覚、精神的関連、意図的な動機である。

 

11.次にある特定の物体を区別する原動力は、願望、決定、記憶、精神的決意、目的の識別である。これらの原動力は、目の前にあるさまざまな物体とつながっている。

 

12.高潔な精神状態

高潔な精神状態は次を含む。すなわち人生への超越的な道徳的目的への信仰、恥、謙虚さ、渇望や食欲に見られる貪欲さの不在、反感と嫌悪に見られる憎しみの不在、利己的な無関心の愚かさに見られる妄想の不在、努力の勤勉さ、より高い目的意識から生じる自信、警戒、非暴力、心の公平性である。

 

13.一次的感情障害

一次的な感情障害には次のようなものがある。渇望と食欲に見られる貪欲さ、反感と嫌悪に見られる憎しみ、利己的な無関心の愚かさに見られる妄想、プライド、疑い、欠陥のある信念である。

 

14.二次的感情障害

二次的な感情障害には次のようなものがある。怒り、恨み、隠匿、敵意、嫉妬、けち、欺瞞、不正直、残虐行為、傲慢、恥の欠如、謙虚さの欠如、心配の落ち着きのなさ、無関心、超越的な道徳的目的への信仰の欠如、過失、自制心の欠如に見られる怠惰、物忘れ、気晴らし、自己認識の欠如である。

 

15.未分類の原動力

最後の未分類の原動力には次のものが含まれる。後悔、倦怠感、そして求めては見つけるの繰り返しである。

 

16,意識の五種感覚と想像対象を区別する心との違い

意識の投影が進展する中、どのようにその異なる段階の顕現を認識かといえば、原初の意識に依拠すれば五感覚の意識が生じ、顕現し、目の前の状況に適応する。波の出現が水の状態によって異なるように、波が上がるときもあれば、上がらないときもある。

 

17.心的連関の形成の例外

想像対象を区別する心は休息がなく、それが超越されたり中断されたりする5つの特別な場合を除いて、心的連関の形成を通して常に生じ、顕現する。その5つの特別な場合とは次のものが含まれる。

1. 精神的なつながりを超越する感覚的存在(欲望の領域内)のトランス状態

2.精神的な連想を超越する感覚的存在(その形態の領域)の客観的現実に対する瞑想的決意の浸透

3.瞑想的決意の完全に超越的な浸透(形式を超えた実存的原則の領域において)

4.夢のない睡眠

5.無意識の状態

 

18.意識の仮想性に見られる特徴について

意識が同一性と目的の特徴と、それらから派生する二元性を顕在化させる3つの方法に見られるさまざまな区別についてすでに詳しく説明したが、その二元性とは、想像する者と想像される者である。それらは象徴的な表現であり、それらの顕現は意識に依存しており、それらは実際にはそれから離れては存在せず、それらはすべて意識の仮想的な特徴としてのみ存在する。

つまり、意識のこれらの異なる投影の進化する順列は、思索と思索されるものの二元性として現れる。このため、同一性と目的のすべての実例は、実際にはそれ自体では存在しない。むしろ、それらは意識の仮想的な特徴としてのみ存在する。

 

19.意識の状態とその原因と結果

意識の仮想的な性質だけがあり、外的条件が意識から離れて実際には存在しないとしたら、区別されるさまざまな思索はどこから生じるのか。これについて、潜在意識の記憶の貯蔵庫にあるすべての種子のために、顕現される意識のさまざまな異なる順列がある。それらの相互相互作用の力を通して、区別について生じる様々な思索がある。

 

20.意識の流れにおける習慣的な力

内なる意識は存在するが、外的な条件は存在しないとしたら、なぜ衆生は生と死の流れを経験し続けるのか。これについて、結果を伴う行為からの習慣的な力は、見る者と見られるものとの間の二元性への執着から生じる習慣的な力と結びついている。以前の結果が終わりに近づくと、他のものは成熟し、意識的な心の中で新たに立ち上がる。

 

21.意識の三重の実存的性質

意識の仮想的な性質だけがあるのなら、なぜ祝福された人は様々な経典の中で、三重の実存的性質があると言われるのか。その理由は、この三重の実存的性質もまた意識から不可分であるからである。あれやこれやと推測することによって、想像される様々な異なるものがある。完全に想像上の憶測にしがみつくことには、現実ではないものへの執着という実存的な性質がある。

 

22.「他者」の発生に依存する実存的性質

「他者」の発生に依存する実存的性質が存在するので、生じる意識の条件における区別についての推測がある。現実の超越論的性質を完全に理解することと、この「他者」の発生への依存との間の本質的な違いは、前者の本質は、その区別についてのいかなる推測にも固執することから常に完全に自由であるということである。

 

23.超越論的性質の理解

現実の超越論的性質を完全に理解することの実存的性質は、「他者」の発生に依存することと同じでもなければ、分離できるものでもない。無常や、無私無欲、苦しみ、空虚など、人生の目的の超越的な性質に見られる他の特徴と同じように、人はそれらすべてを見なければ、それらのどれか一つも見ることはできない。

 

24.三重の実存的性質の不在

この三重の実存的性質があるのなら、なぜ祝福された方は、万物には実存的性質がない(空性の性質に恵まれている)と教えたのか。これについては、意識のこの三重の実存的性質に基づけば、同一性と目的において意識が三重に欠けている。それゆえに、仏陀は、万物には実存的な性質(空性の性質)がないことについて、ひそかな意図をもって教え給うたのである。

 

25.実存的性質の欠如

第一に、完全に想像上の憶測にしがみついていると、この非常に決定的な特徴のくぼみによって、同一性と目的に真の実存的性質が欠如する。次に、「他者」の発生に応じて、同一性と目的には、それらが単独では存在しないため、真の実存的性質が欠如する。最後に、現実の超越論的本質を完全に理解する上で、同一性と目的には、完全に想像された思索への執着という最初の性質から完全に自由であるがゆえに、いかなる真の実存的本質も存在しない。

 

26.意識の仮想的な性質だけが存在すること

万物には究極的な意味があるが、超越的な性質のそのようなものもある。常にそうであるがゆえに、この超越的な本性には究極の実在性があり、そこにあるのは意識の仮想的な本性だけである。

意識の仮想的な性質しかないというこの認識を実践に移すことについての崇高な道の5つの段階がある。

27.意識の仮想的な性質だけがあるというこの認識の実践段階

そこにあるのは、仮想的な性質だけにあるという特徴と性質であり、誰が目覚め、その中に入り、それを実現するにはいくつかの段階がある。これは、大いなる者の二重の血統に恵まれていることへの言及である。

 

28.集合的な精神的目覚め

集合的な精神的目覚めの乗り物として、一つには自然である本来の種子の性質がある。これは、時間の初めから存在していた原初の意識への依存を指す。これはまた、本質的に苦しめられていない目的の原因でもある。二つには、学習され、獲得されるその種子の性質であり、これは、聞くこと、熟考することを指す。

 

29.人生の超越的な目的

人生の超越的な目的の領域である精神的な領域。そこから流れ出る人生のより大きな目的を育むのである。それを聞き、熟考し、それを培うと、それは心に香りを放ち、育てることによって学び、獲得される。この二つの種の性質を授けられると、人は意識の仮想的な性質だけがあることに気づき、目覚めることができる。

 

30.意識の仮想的な性質にもとづく認識の5つの実践段階

意識の仮想的な性質だけがあるというこの認識を実践する5つの段階は次のとおりである。

1. 道徳的な備えの段階

2.モチベーションの強化による準備段階

3.妨げられない浸透の段階

4. 超越的な修行の段階

5. 究極の実現の段階

 

1. 道徳的な備えの段階:

道徳的準備の第一段階は、集団的精霊的覚醒のより大きな道筋に見られる解放の漸進的な育成である。それは、深い信仰と、意識の仮想的な性質だけが存在することに見出される特徴の理解の能力にかかっている。超越的な知識として回復された意識があるまでは、 そこには仮想的な本性しかないという認識にとどまろうとする。「見るもの」と「見るもの」の二元性に潜む種は、抑制することも除去することもできない。

 

2.モチベーションの強化による準備段階:

強化された動機付けによる準備の第二段階は、集団的霊的覚醒のより大きな道筋に見られる浸透の漸進的な育成である。この段階では、主体と客体、見る者と見られる者の二元性への執着を徐々に抑制し、排除する能力がある。もし何かが、その前に確立されているならばそれは、意識の仮想的な性質しか存在しないという認識であると言われており、それを達成し、所有することによってその超越的な原理に不変はない。

3.妨げられない浸透の段階:

妨げられない浸透の第三段階は、高貴な道の超越的なビジョンにとどまる菩薩の実践である。この段階では、人生の目的の超越的な性質が浸透する。1つ前に対象が存在するとき、超越論的知識は、それらのどれにもとづこうとしない。そして、意識の仮想的な性質だけがあるという認識にとどまる。なぜなら、見る者と見る者の二元性からの自由があるからである。

 

4.超越的な修行の段階:

超越修養の第四段階は、崇道の修行にとどまる菩薩の修行である。この段階の訓練では、人生のより大きな目的についての超越的なビジョンに見られる原則に従った継続的な修行がある。達成不可能で、想像を絶する、この世界を超えた超越的な知識がある。感情障害と認知的不協和という二つの障害、そしてそれらの未熟な性質を取り除くことによって、意識の霊的基盤を回復させる手段がある。

 

5.究極の実現の段階:

究極的悟りの第5段階は、人生のより大きな目的の超越的な本質への至高の宇宙の目覚めにとどまることである。障害からの自由が完全に明確で純粋であることで、あらゆる種類の衆生を未来に永遠に精神的に変える能力がある。ここでは、苦難を越えた領域がある。想像を絶する、高潔で、永遠に続く、満足の至福に恵まれている。そして霊的生活の解放がある。

 

偉大な賢者である釈迦牟尼仏によって宣言されたその超越的な目的。

意識の仮想的な性質だけが存在することについての三十頌がここに完結す。