唯識三十頌(じゅ)という天親菩薩の著とされる30の詩歌。

 

梵文とそのアルファベット表記があり、法隆寺の漢文が残っている。

 

問題は、現代人の自分からしてみて漢文から意味がつかめないことで、

 

結局AIを使って、サンスクリットを一旦英訳し、さらにそれを日本語に意訳する

 

ことによってやっと内容が見えてきた。

 

 

サンスクリットから英文を起こしたのは、おそらく漢文から英訳したものはあっても

 

サンスクリットから起こした英文が見当たらなかったため、不正確ながらAIで試訳して

 

意味の通る日本語で再構成したということになる。

 

直訳しても意味が通じないのは、言語というのは当然その背景に現代と違う常識、時代背景、

 

表現のあり方が同じでないため精密に直訳しても尚、理解できないから。

 

天親も、漢訳した玄奘他三蔵たちも天才以上の頭脳で、それを簡単に把握しようというのが

 

間違いかもしれないが、ともかくも何を解らないでは入り口にも立てない。

 

意訳をしつつ思えたことを、まだ記憶が新しいうちに書き留めたい。

 

自分の解釈できる範囲であり、これまでの経験からのバイアスが入るが、

 

粗末なオリジナルであることには違いない。

 

まず、なぜこの頌ができたかはコピペをしても仕方がないので割愛するとして、

 

説いていることは意識について。特段目から鱗が落ちるようなことではなかった、

 

理由は自分側にある。深い理解が追いついていないからだろう。

 

それでも、末那識、阿頼耶識という言葉(漢文にはない)には触れている。

 

自分でも分かっていない煩悩とか制御不能な感情が生み出すことは、

 

結局どこかで苦悩に変化する。理屈でいくら自分を正当化しても、誰が悪いと言ったとしても

 

心が重くなり、安らいだ心は訪れない。

 

「戦うな」と天親はいう。抑え込めないからだし、対象を除外してもキリがない。

 

煩悩も感情もあるのが当たり前、人間である以上取り除けないが、

 

それに蓋をすることはまんざら無理なことではないという。

 

どうすればいい、やり方教えて、とすぐに秘法に飛びつきたくなる根性で

 

答えを求めて仕舞えば、なんだそういうことかということにしかならない。

 

要は実践せねば何も起きないということになる。

 

きちんと生きろという。生きる態度、精進する様を正常にしてゆけば

 

徐々に感情や煩悩に征服されなくなる、ということだと思う。

 

運動や筋トレをせずに、筋肉をつける教科書を読んでも身体は変わらない。

 

論理思考の本を読み漁っても、現実に思考を実践せねば、思考習慣は変わらない。

 

自分を浄化するというステップは驚くほど地道なことかと思わされる。

 

唯識三十頌は、仏説ではないがお経のように読めるものと思った。

 

漢文で読み慣れてゆけば、その深い意味が少しは実感できるようになるのだろう。