人間、とかくシロクロをはっきりさせたがる。グレーを放って置けない。

 

あなたは頭がいいか?と聞かれたとき、どういう返事をするだろう。

 

良いです、悪いです。という二択で答えるのが三流とすれば、

 

答えをYES/NOとかON/OFFだけの点で選択をするのではなく、線の概念を取り入れて

 

直線で言えば七割ぐらい頭がいいところあたりというのが二流の下、

 

ベルカーブのこの辺ですかね、とかいうポジションを示せるのが二流の上として、

 

そもそも良い悪いの評価軸は何を持って優劣を決めるのだ、という展開ができて

 

複数の評価軸から象限を参照にしてグルーピングしたり、論理的な展開ができれば、

 

一流だろうか。

 

ここで勝手に一流とか、三流とかいうのは、0次元(点)、1次元(線)、2次元(面)、3次元(空間)

 

というふうに構想力が上がっているだけのことで、本来一流も三流も誰かが一方的に決めているにすぎない。

 

もっと言えば、そもそも一体何の問いなのだ、という洞察と反応のセンスというのが更に上流になる。

 

こういうったクローズドクエスチョン(閉じた質問)は、同じようなケースはいくらでもある。

 

神様はいるのかいないのか、奇跡を信じるのか信じないのか、これらも同じ構図になる。

 

こういう問いに対して思考の幅が薄いと、やはり点や線の回答しかできない。

 

ただ立体的な思考をしたからといって、はっきりした回答にならない。下手な禅問答のように

 

何を言っているのかという答えとなったり、全てを言って何も言えていないということになりかねない。

 

オープンクエスチョンになれば、あなたにとって何が一番大切なのかという

 

簡単な選択肢を与えない質問となり、その答にまた個人の知識や価値観、センスというものが

 

反映される。

 

物事を聞かれたとき、自ら疑問が起きたとき、そもそも正解があることは少ない。

 

学校のテストのようにマルかバツであったり、採点基準が決まっていることなどもない。

 

何が正しいということなどないのだ、と分かったようなことは幾らでも言えるが、

 

それで人生が簡単になることなどない。

 

明かな間違いなど山ほどある。人の思考や行動でもそうだと言える。

 

今こそ心の時代だ、だから仏教が必要、仏教は正しい生き方を教える、

 

幸せになる方法なのだ、というならそういう点とか線とか、

 

面とか空間の思考脳で受け取れるべきことでもないのだろう。

 

きっと人間はそこまで単純ではないし、人生も正解を与えられてなんとかなることでもない。

 

仏教というプロダクトを与えられて何とかなることはなく、

 

人間自体もプロダクトではない。モノではなく、現象の連続体ともいうべき

 

ことを存在と認識しているとすれば、そこには正解というものを

 

一度適用すればずっと変わることができるのだ、というようなことが

 

あるという方に無理がある。

 

心の時代ですという、そもそも心をモノのように扱ってしまうなら

 

処方薬とかが効くのだろうけれど、人間そのようにできていない。

 

仏教は正しいことを言っているではないか、仏教は人を幸せにする教えではないか、

 

そこれはモノに効果を与えるという見方になっていないか。

 

仏の世界など、そもそも三次元認識で捉えられることでもない。

 

(「親鸞」真宗教団連合編 朝日新聞出版 本願の章を読んで)