導きとか救済とかいうけれど、

 

体温の伝わる距離で伝わるものだろうと思う。

 

観音菩薩の化身とかいう人が、どこかに現れるということではなくて、

 

観音菩薩と気づくのは実は自分自身の心ではあるまいか。

 

実に、自分の生きてきた中で、また今でさえ、そう思わずにはおれない人がいる。

 

短い時間であったにせよ、その時、その時代に自分の目の前に居られたのだ。

 

役目が終わった時、または自分が次の人生の章に入る時、

 

何事もなかったかのように、もう会えない。

 

誰かを仏教で救済するなど、思い描くこともできない。

 

そういうことではないと思う。

 

一つの世界がそこにある。それが示されるだけ。

 

感得するのは、本人なのだ。続いてゆくのも、本人なのだ。

 

誰かを、教えることなどできない。信じさせることも本質ではない。