歎異抄や御文に見られるような、一点の曇りもない信心とか、

 

仏智に照らされることを喜びにするとか、回向に感謝とか、

 

阿弥陀仏そしてその本願に一心にというのは殊勝なこととか、

 

思ってしまうと、これは「心がけ」とか「心の持ち方」とかと、

 

あまり変わらない。本質ではないように思う。

 

竹橋太先生が言われることが、少しわかる。

 

ここではっきりと言っておきたい。仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。仏教に出会うことによって見えてくるものに対して、どう生きていくかは、一人一人が決めることなのである。こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。  竹橋太「本願」

 

人というのは、誰かに操られる存在ではないから、

 

悪いことをしても、悪魔が入ってそうなるのではない。

 

運が傾いても、何かが操作してそうなるのでもない。

 

悪魔も、仏も、対象ではない。どこにも人類共通の対象として存在しない。

 

個々人の意識の中で、主体として初めて存在し得る。

 

宇宙は大きな意思で創られ、動いているといえばそうかもしれないが、

 

人間が対象として認知できる限度を超えることで、

 

生身の個体としては、自分の意識の主体がどうなるかに過ぎない。

 

これが実は本質なことであって、

 

人が偉大かどうかというのは、その人を動かしている何かが偉大とかいう前に、

 

その人の中身が偉大であって、世の中で尊敬されている人々や、

 

自分が偉いと思う人たちというのは、その人の精神性があって、

 

何かを成し遂げておられるのであって、その人の中身が違うと言える。

 

その違いはどこから来たのか、こそが主体なのだ。

 

それは個人の精神に宿る、と言える。どこかからやってきたというより、

 

何かの対象が、その個人を操作したというより、

 

その人が主体として心に抱く何かが影響しているといえる。

 

ただ「ああ有難いね」「殊勝な心がけだ」「熱烈な信仰の姿」

 

とかいう見え方が全く本質的ではないことになる。

 

自分が手を合わせるのは、どこかの対象でもなければ、

 

念仏をするのも、何か対象に聞いてほしい訳でもない。

 

仏は対象ではなく、照らす主体、本願の主体そのものであって、

 

自分の心になくて、どこかにあるということなら、やはり信仰対象に過ぎない。

 

清沢満之はこれを言っていたのではないか。

 

宗教は主観的事実である。主観的事実とは、其の事実の正確なると否とを、私共の各自の内心に尋ねて決定すべきものにして、彼の客観的事実の如く、私共が外物の関係、他人の意見等によりて、其の正否を断定すべきものではない。   清沢満之