今日、猛烈に読みたくなった本。
このコラムで紹介されていた本 なんだけど、そこに鴻上尚史さんのほがらか人生相談で紹介されていたと書かれていた。どちらもどーんと来た。
あたしは「察する」のが苦手だ。
「察する」というのは、相手が言っていないことをこちらが勝手に推測することだ。そんな推測、当たっているか、当たっていないかわからないと思うから、それを前提に何かを判断する事に居心地悪さを感じる。
人はいつも本音を言うとは限らない。だから、たとえその人が「大丈夫」と言ったところで、大丈夫とは限らない。「要らない」と言っても、本当は欲しいのかも知れない。
だけど、それについて、いくらあたしが考えたところで、結局は本人にしかわからないし、本人だってわからないのかも知れない。
だから、その人が、あたしに「大丈夫」とか「要らない」と言う時には、少なくともあたしに「大丈夫」とか「要らない」と思って欲しいのだと判断することにしていた。その気持ちを尊重して、言葉の額面通り受け取ることにしていた。
いくら考えても判断のつかないことを長時間考えるのも、「もしかして大丈夫じゃなかったのかなぁ」と過ぎたことを反芻するのも苦手。
「何かあったら言ってね」と言うし、言われたらそれに対応する気持ちはある。そして言われない限りは勝手にやらない。
この鴻上さんの回答を読んで、ここ何年かそれがうまくできてなかったんじゃないかと思った。
こういう「そのまま受け取る」「察しない」態度が冷たい、寄り添っていないと言われることがあった。大事にしていた人からだったので驚きショックだった。それから自分が苦手な「察する」をやろうとし始めた気がする。
察して、こうだろうと当たりをつけようとすると、根掘り葉掘り聞きたくなる。判断材料が欲しくなるから。頼まれてもないけどしたほうがいいかなと考える。そして、そういうことに疲れる。苦手だから疲れるのだ。相手に愛情を持っていても、自分の苦手なやり方は疲れるものなのだ。そして、あたしの機嫌は悪くなる。
あたしは上から言われるのも、上から言うのも嫌だ。そして「してあげる」と思うことは、上から目線で見ることになりやすく、そうなると相手を「正しい方向に導くために」コントロールしたくなる。これにもあたしはひどく疲れる。自分がされたくないことはしたくない。これはあたしにとって、寄り添っていることにならない。
気持ちの付いて行かないことは全部やめる。
そこからがスタートだ。