"水清ければ魚棲まず"

(みず きよければ さかな すまず)

 

ということわざがあります

 

 

これは

「隠れる場所さえない澄んだ水の流れには

決して魚は好んで棲もうとしないもの」

といった意味のものであり

 

要約すると

 

清廉が過ぎる人格や潔癖な性格で

何事においても正し過ぎる人間には

人はかえって寄り付こうとしない

…と説いているものらしいです

 

 

"落ち度のない人間"...

 

憧れますが現実にいたなら

少しウザい気もしますねw

 

 

 

 

似たようなことわざに

 

"水清ければ月宿る"

(みず きよければ つき やどる)

 

というものがあります

 

 

 

意味をググると

 

"水が澄んでいれば月がきれいに映る"

"心に汚れがなければ神仏の恵みがある"

 

とあり

 

その意味合いは‥わかりますよね?

 

 

 

この

「水清ければ魚棲まず」

「水清ければ月宿る」

・・・

 

なにやら

この二つのことわざは

相容れない内容のように思えますが

 

それはきっと

"清らか" とか "澄む"

の解釈によるのでしょう

 

 

 

学生として 社会人として

男として 女として

恋人として 伴侶として…

 

人は

その立場の全てにおいて

完璧である必要は無く

 

 

たった1つの"何か"

たった1人の"誰か"に対して

 

想いや行動のたった一部でも

清らかであったり

澄んでいるのならば

それで良いのではないでしょうか?

 

 

それが人工物でないなら

 

どんなに美しい川の流れの中にも

岩があり 藻が生え 影があります

 

濁り澱んだ沼であったとしても

水面が穏やかであったなら

 

暗闇の中

水鏡に月は宿ります

 

 

大切なのは きっと

 

誰かの為や 何かの為に

 

水の流れを止めないという

決意や覚悟 であったり

 

誰かの想いをはかり知る為の

水面に月を写す努力

なのではないのでしょうか?

 

 

 

私は

清廉潔白な人間ではありませんが

 

そうであるが故に

"清らかさ""澄む"

といった言葉の持つ意味合いを

自分なりに捉えているつもりです

 

ですので私には

私の流れを心地よいと思ってくれる

もいますし

水面に月を写すこともできます

 

私にとっての神仏

 

いつだって自分自身と

生きて触れられる相手

なのです

 

 

新年早々

重い話で本当にすみませんでした

チーンあせる

 

 

こんな私ではありますが

 

どうか本年も

宜しくお願い致します♪

キラキラニヤニヤDASH!

 

 

2024年 (令和6年) 元旦