鎌倉時代から明治時代にかけて塩の道として栄えた「金沢街道」。横浜金沢の平潟湾で製塩し、要所・朝夷奈切通を通って鎌倉に運びいれる道筋でした。鎌倉五山の浄妙寺や鎌倉随一の竹林を有する報国寺など格式の高い寺社が点在していますが、鎌倉中心部からやや距離があるためか静けさが保たれています。東の鳥居をでて横浜国大附鎌倉小の横を抜けて「大学前」バス停からまずは「浄妙寺」で下車します。
「浄妙寺」は文治4年(1188)、源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣、足利義兼が退耕行勇を開山として極楽寺という密教系の寺院として創建した後、浄妙寺と改め禅刹となりました。足利義兼は北条政子の妹の夫で退耕行勇は頼朝と政子夫妻に尊敬された高僧でした。鎌倉五山第五位の格式にふさわしく、最盛期には23もの塔頭を有する大寺院だったといいます。藤原の鎌足が子孫繁栄を願って背後の稲荷山に霊鎌を埋めたことが「鎌倉」という地名の語源になったといいます。
本堂は宝暦6年(1756)に再建され、寄棟造銅葺きの美しいシンメトリーの姿は歴史ある寺院の本堂にふさわしい堂々たる威容です。
園内奥には足利一族の墓があり、足利尊氏の父、貞氏の墓と伝わる宝篋印塔の中央部に刻まれた宝生如来の浮き彫りに注目です。
天正年間(1573~92)に建てられた茶室「喜泉庵」が平成3年(1991)に復興、ここからの枯山水庭園の眺めはベストとのこと。
金沢街道を少し戻り、静かな谷戸に抱かれたところにあるのが鎌倉随一の竹林を有する「報国寺」です。室町幕府初代将軍足利尊氏の祖父・足利家時が、建武元年(1334)に創建した臨済宗の寺院で足利・上杉両家の菩提寺として栄えました。
端正な竹林が有名で竹寺と呼ばれていますが、数十種類のコケが自生する苔寺でもあります。
庭や木の根、置石、散策路に配された石灯籠や石仏にコケがつき、しっとりとした雰囲気を醸し出していて、古都の風情に満ちています。
凛とした本堂には南北朝時代に作られた釈迦如来坐像が安置されていますが普段は拝観できません。川端康成が『山の音』を執筆した机もあり、また枯山水の前庭も美しい。
本堂の左側から竹の庭へ。25mも天高く伸びる約1000本の孟宗竹が群生する竹庭が見事で、きれいに差し込む光や竹の葉擦れの音に心が奪われます。
竹庭に設けられた喫茶スペース「休耕庵」からも竹と苔の緑の世界がゆっくり眺めることができます。
岩肌に彫られたやぐら(横穴式墳墓)に、足利家時ほか、永享の乱(1438)で自刃した足利義久など足利一族が眠っています。
最後に鎌倉最古と伝わる天平6年(734)創建の寺「杉本寺」を訪れます。鎌倉幕府が開かれる500年前、行基が自ら刻んだ十一面観音を本尊に創建した鎌倉で最も古い寺と伝わります。本尊は3体の十一面観音菩薩で残りの2体それぞれ仁寿元年(851)慈覚大師円仁の作と寛和2年(985)恵心僧都の作と伝わります。鎌倉時代の火災の時、3体の観音菩薩が自ら大杉の下で火を避けたことから「杉の本の観音」と呼ばれていたといいます。
バス通りの金沢街道から両脇にずらりと続く十一面観世音菩薩の奉納幟が独特な雰囲気を醸し出す見上げるような急勾配の石段を上りきると茅葺き屋根の仁王門が現われます。
18世紀中ごろに建立された門の左右で朱塗りの仁王様が睨みをきかせています。仁王像は鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶の作と伝わり、鬼気迫る表情やポージングに目を奪われます。
仁王門の先、本堂に続く鎌倉石の階段は、すっかりすり減って角がなくなり青々としたコケに覆われています。1200年以上もの年月の間にどれだけの人が行き交ったのだろうかと緩やかな曲線となったコケの石段を見上げてしまいます。現在この石段を上ることは出来ず、脇に設けられた階段を上ったところに本堂があります。
重厚な茅葺屋根の本堂は火災で焼失しましたが建久2年(1191)に源頼朝によって再興されました。また境内には財宝の御利益のある大蔵弁財天堂もあり、お参りすれば大きな蔵が立つほど富に恵まれると古くから伝えられている隠れたパワースポットです。













