いつの頃からだろう、日本で公共の場での携帯の使用を控えるという習慣が始まったのは。それが日本人にとって美徳であり良識であることを否定する日本人はまずいないだろうが、そもそもなぜ日本人皆がそういうマナーを受け入れているのかを分析するのは興味深い。日本人と中国人と上海人そして携帯の不思議な関係について考えると、なおさらそうである。

というのも中国で公共の場で携帯の使用を控えるような人はいないし、それが美徳であり良識であるなどと考える中国人など聞いたことがない。逆に言えば、携帯のマナーにおいても和を貴び静けさを愛する日本人というのは世界的な視点からすれば非常に稀な人々で、まして中国人からすれば太客気つまりあまりに鯱ばっているだけでなく、そもそも携帯を少しも有効活用しておらず、だったらそもそも携帯を持たなければいいのにということにさえなりかねない。

その一方でこれは携帯に限ったことではないのだが、中国で携帯というのは一種自己アピールの小道具的な趣がある。中国では大音量でお気に入りの着信音をひとしきり鳴らしてから大声で快活に通話を始めるというのが一種のマナーとなっている。いかめしい顔をしてここは公共の場所ですから後でまた…などと小声でぼそぼそ言おうものなら、逆に非常に目立ってしまうに違いない。

これが上海人の場合、着信の時間をきちんと数秒取ってからおもむろに電話をとってビジネスの話を快活に始めるというのがマナーと言えばマナーなのだろう。これは決して気のせいではないと思うが、上海にいると無駄に何かをしている人というのが極端に少なく、仕事であれ遊びであれプライベートであれ、ほとんどの人が何かの目的にために時間を費やしコミュニケーションをし、そのために携帯を有効活用しているという感じを強く受ける。無目的で快活でない人というのは、つまり上海的でないのである。

だから日本人と携帯の関係は中国人からすれば奇怪つまり異様で、上海人からすれば不明白つまり意味不明である。こうしてみると、携帯という文明の利器は国民性また地域の特色を明らかにするテスター的役割を果たしているようにも見え、人と機械との何とも不思議な関係を明らかにしている。