【中心聖句】
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。
今日の福音朗読箇所は単元が2つに分かれ、それぞれに「律法学者を非難する」と「やもめの献金」という題がつけられていることから、律法学者(宗教的指導者)とやもめ(最も貧しい人)の態度が対比されていることは明らかですね。
前半の「律法学者を非難する」(38〜40節)にまず登場するのは長い衣στολήです。
祭司や大祭司の服装はこのようなものだったとのことですので、これで街中や広場を歩き回ったら目立ちますし、一般庶民としてはすれ違ったら挨拶をせざるを得ませんね。
(画像出所 Temple Institute)
これらのエラい律法学者さんたちは常に上座に座りたがるばかりではなく(39節)、やもめの家を食い物にし(40節)、見せかけの祈りをする(同)というのです。これは現代でも、キリスト教に限らず仏教や神道でも耳の痛い重鎮はけっこう多いのではないでしょうか(苦笑)
この重鎮さんと好対照が貧しいやもめ(42節)でした。イエスが賽銭箱の向かいに座って大勢の金持ちが多額の献金をする様子を見ていました。すると彼らに混じっていた貧しそうなやもめが小銭2枚を献金したのでした。イエスはそれを見て弟子たちを呼び寄せ「このやもめは誰よりも多く献金した。他の人たちは有り余っている金の一部を献金したが、彼女は全財産を献金したのだ」といったのでした(43〜44節)
これは色々な宗教的講話や道徳的訓話にいくらでも出てきそうな話ですが、それらと大きく違う点があります。
それが44節で「生活費」と訳されている言葉です。この原語は βίος今さら言うまでもないことかもしれませんが英語bioに通じる言葉ですね。つまり、この貧しいやもめが差し出した献金は彼女の生活費全てであったと同じに実は彼女の生命そのものでもあったということです。
主なる神を信じて自分の生命までをも投げ出す、そのような人生を生きたのはイエスその人でした。

