主日の聖書 旧約聖書 ヨブ記38章1節、8〜11節 | 生き続けることば

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新旧約聖書の言葉をご紹介する他、折に触れて宗教関連書、哲学書、その他の人文系書籍、雑誌記事の読後感などを投稿いたします。なお、本ブログ及び管理者は旧統一教会、エホバの証人、モルモン教等とは一切、関係がありません。

【中心聖句】

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった(1節)

 

今日の旧約聖書朗読はヨブ記からです。今さらかもしれませんが、ヨブ記について少しおさらいをしておきましょう。

 

ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(1章2節)ような人物いわゆる義人であり、家庭にも恵まれ家業も順調で「東の国一番の富豪」(2〜3節)でした。

 

ところが、彼の信仰心を試す許可を神から得たサタンが彼の家族と財産を尽く奪ってしまいます(1章9〜18節)

 

しかし、そのような悲劇に見舞われても「神を非難することなく、罪を侵さなかった」(1章22節)ヨブに対しサタンは再び神の許可を得て今度は全身に酷い皮膚病を感染させてしまいました(2章6〜8節)。それでも彼は「唇をもって罪を犯すこと」(2章10節)をしませんでした。

 

これがヨブ記のPrologueとなりますが、全体をみると1〜2章と42章7節以下つまりPrologueとEpilogueが散文で書かれているのに対して、それらに挟まれた本文は韻文で書かれています。

 

そして、この散文と韻文の部分で苦しみに対するヨブの態度が正反対になっていることが分かります(雨宮慧『図解雑学 旧約聖書』p.190)

 

散文の部分では「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(1章21節)とか「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2章9節)などと諦観にも似た気持ちを吐露し苦しみを受け入れようとしています。

 

それに対して、韻文内では3章の冒頭に「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って言った」(1〜2節)とあるように自分の境遇を嘆き、見舞いに訪れた三人の友人と論争し(4章以下)、「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない」(30章20節)などと神に向かって不平を述べ立てています。極めつけは31章の最後の部分で、そこでは「どうかわたしの言うことを聞いてください...全能者よ、答えてください」(35節)などと神に挑みかかっています。

 

今日の朗読箇所では神はヨブの受けた苦悩の問題には直接答えず、かえってヨブに問いかける形で応じています(関根正雄『関根正雄著作集第九巻  ヨブ記註解』p.15)。

 

神はヨブの挑戦に真っ向から答えることはしませんでした。それは決して神がヨブの質問、ヨブの挑戦をはぐらかしたということではなく、ヨブに問う者として出てこられたことこそヨブの百八十度の転換を可能にした神の恩恵であったのです(同ppp.322〜323)

 

今から40年以上も前、アメリカのユダヤ教保守派のラビであるHarold S. Kushnerが書いた"When Bad Things Happen To Good People"(邦題『なぜ私だけが苦しむのか』が世界的な大ベストセラーになりました。

 

これは数百万人に一人という大変な難病で息子を失った著者が「もし神がalmightyでlovingならなぜthe righteousあるいはgood peopleが苦しまなければならないのか」という問いを発し、それに自ら応えようとした名著です。

 

本書そのものについてはいずれ改めてご紹介したいと思いますが、このHarold S. Kushnerの発した問いは神学用語としては「神義論(theodicy)」と呼ばれているものです。この言葉は117世紀後半〜18世紀に活躍したドイツの哲学者・数学者でニュートンとは独立して微積分法を考案したライプニッツの"Les Essais de Théodicée "(1710)に拠っています。

 

この「神義論(theodicy)」の議論の出発点は「神が全能でありかつ善であるとするなら、その神の創造によるこの世界はやはり善であろう。ところが...」(大貫隆他監修『岩波キリスト教辞典』p.583)というものです。

 

確かに「神義論(theodicy)」という言葉はライプニッツを起源としますが、実は「前任であるはずの者が理不尽な苦しみを受ける」というテーマそのものは古代メソポタミア、紀元前18世紀ごろのシュメール文明下において「シュメールのヨブ」ともいうべき伝承が既に存在していたと言われています。

 

とすれば、はヨブ記が書かれたとされる紀元前5〜3世紀から更に1,000年以上も遡るシュメール文明の時代から今日に至まで実に約4,000年にわたって「神学上の問い」とされて来たということも言えるでしょう。

 

今日の朗読箇所で神יְהוָ֣הは嵐הַסְּעָרָ֗הの中からヨブに答えます。旧約聖書において嵐הַסְּעָרָ֗הが神יְהוָ֣הの顕現に伴う「自然現象」であることは良く知られていますね。

 

ヨブに現れた神יְהוָ֣הは海の誕生(38章8節)に助産婦のように立ち合い「密雲を着物とし 濃霧を産着としてまとわせ」(9節)ただけではなく、それに限界を定めた(10節)のでした。

 

この8〜11節はちょっと分かりにくい箇所ではありますが、要するに混沌と無秩序を表す海といえども神にとっては赤子にも等しいものであるということになります(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.193)

 

二度にわたる神יְהוָ֣הとの応答を経て遂にヨブは「あなたは全能であり  御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(42章2節)、「わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます」(同6節)と告白するに至るのでした。