主日の聖書 新約聖書 マルコによる福音書15章1〜39節 受難の主日 | 生き続けることば

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【中心聖句】

しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた(37〜38節)

 

 

今日、「受難の主日」の福音朗読は大変長いので、その中で特に印象的な場面を取り上げましょう。

 

十字架上のイエスが息を引き取る直前に発した言葉は良く知られています。

 

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である(15章34節)

 

このすぐ後に、その場に居合わせた人々の中にはイエスが旧約の預言者エリヤを呼んでいるという者がいた、と書かれています(35〜36節)

 

これだけなどなんのことかわかりませんが、並行箇所であるマタイによる福音書では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(27章46節)と記されています。

 

この2つの違いはマルコの場合はアラム語で引用しているということです。

 

いずれにせよ、これらの元は旧約聖書詩篇22編2節

 

わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか

 

という言葉です

 

このヘブライ語原文がאֵלִ֣י אֵ֖לִי לָמָ֣ה עֲזַבְתָּ֑נִיです。

 

ユダヤ教研究家・前島誠氏によれば

 

イエスは生涯の終わりに祈りを唱えた。それも詩篇22編全文で祈った。ユダヤの祈りの習慣に従って、最初の一節を声高に発音したため、周囲にいた者にはその部分だけが聞こえたのだろう(前島誠『ナザレ派のイエス』p.294)

 

ということです。

 

詩篇22編は

 

わたしの魂は必ず命を得

子孫は神に仕え

主のことを来るべき代に語り伝え

成し遂げてくださった恵みの御業を

民の末に告げ知らせるでしょう(30〜32節)

 

と結ばれています。

 

イエスの「わが神、わが神」と呼びかけは十字架の上という極限状態の中で自分を捨てたと思える神への叫びでした。しかしそれは「神の沈黙の背後に、まだ見えない神の計画が必ずあると信じていた上での祈り」だったのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.69)

 

イエスが息を引き取ったとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた(38節)と書かれています。

 

これだけ読むと意味が分かりにくいのですが、この神殿の垂れ幕というのは神殿の一番奥にある至聖所の入口に掛けられた幕でした(出エジプト記26章31〜35節)。そして、この至聖所には年に一度、贖罪日(ユダヤ暦第7の月の10日;レビ記23章26〜32節)大祭司だけが入ることを許されていました。

 

その神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたということはつまり「イエスの死はすべての人に神との直接的な交わりを可能にする出来事」(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.69)だったのです。