【中心聖句】

主なる神が助けてくださるから、

わたしはそれを嘲りとは思わない(7節a)

 

 

旧約聖書イザヤ書40〜44章いわゆる第二イザヤには四つの「主の僕の歌」があり、今日の朗読箇所はその第三歌の一節です(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.66)

 

4〜5節前半には

 

主なる神は弟子としての舌を私わたしに与え(4節a)

朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし(4節b)

主なる神はわたしの耳を開かれた(5節a)

 

とあるように、神が毎朝わたし(第二イザヤ)に働きかける、つまりイザヤと神との朝ごとの交わりが書かれています。

 

そうした神の働きかけに対して第二イザヤは「逆らわず、退かなかった」(5節b)のでした。

 

そして日中になると「背中を打ったり」「ひげを抜こうとしたり」という迫害に対して第二イザヤはそれら(嘲り、唾)を敢えて受けます(6節)

 

それが可能なのは「主が助けてくださる」からであり、「わたしが辱められることはない」のを知っているからであり(7節)、苦しみを甘受できるのはそこに神の計画があることを見ているからなのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.67)

 

最後に、ここで謳われている「主の僕」はいったい誰でしょうか?

 

クリスチャンならば恐らく「イエス・キリスト!」と即答するでしょう。

 

しかし、雨宮神父は「ここでの僕は第二イザヤ自身」であり、「第二イザヤは将来を予告したのではなく、苦悩を甘受しなければならない自分自身のために歌っているとみなすのがよいと思われる」(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.281)としています。

 

「新約の光に照らして旧約を読む」ということが良く言われます。もちろん、それはそれで大切なことには違いありませんが、それが行き過ぎて本来、旧約の記者が意図していなかったことまで読み込んでしまう危険は避けなければならないということでしょう。このことに関しては次の雨宮神父の言葉をもって締めくくりましょう。

 

「苦難の僕の歌」を第二イザヤ全体の中に位置づけ、まずは第二イザヤの主張そのものに目を向けるとき、わたしたちの信仰をはぐくむ力が込められていることに気づかされます。その力に触れてから、イエスとの関連性を考えても遅くはないと思うのですが。(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.285)