主日の聖書 新約聖書 マルコによる福音書9章2〜10節 | 生き続けることば

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【中心聖句】

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした・「これはわたしの愛する子、これに聞け。」

 

 

今日の福音朗読の冒頭には、「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて」(2節)とあります。

 

ここで連れてと訳されている言葉の原語はπαραλαμβάνωです。

この言葉はマルコによる福音書では6回使われていますが、そのうちの2回(5章40節、14章44節)では3人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)と共に用いられています。これらの箇所ではイエスが自分の秘密を限られた者に露わにする出来事が語られているのです(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.67)のです。

 

次に、2節後半にはイエスの姿が彼らの前で変わりとあります。ここでの変わりの原語は μεταμορφόωです。この言葉はメタモルフォーゼなどという外来語で良く知られていますね。

 

ここで変わりはと、文法用語を使えば能動態で表されていますが、実は原文は受動態です。つまり、直訳すればイエスの姿が彼らの前で変えられとなります。

 

イエスは自ら姿を変えたのではなく、誰かによって変えられたのです。このことによって弟子たちはイエスが誰であるかを神によって教えられたわけです。

 

4節ではモーセエリヤが現れています。モーセは約束の地を目前にして死去しますが、彼が葬られた具体的な場所は知られていませんでした(申命記34章6節)。またエリヤ神が起こした嵐で天に引き上げられています(列王記下2章11節)。つまり、天にあげられたエリヤの出現はイエスが天に属することの証しだったのです(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.69)

 

にも関わらず、ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった(6節)ため、仮小屋を3つ建てましょう、という的はずれな応答をしてしまいました。また、弟子たちは恐れ戦きうろたえるばかりでした(同)

 

人がイエスの真の姿を理解するためには、長い付き合いが必要なのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.49)