【中心聖句】

御使いは言った。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 

今日の旧約聖書朗読箇所には「アブラハム、イサクをささげる」(新共同訳)という見出しがつけられていますが、「イサク奉献」「イサクの燔祭」などという名称でも知られています。

 

この「イサクの燔祭」「天地創造」「失楽園」「バベルの塔」「ノアの洪水」などと並んで創世記に書かれている様々なストーリーの中で最も有名なものの一つですので、改めてあらすじを説明することはせず、いくつかのポイントについてみてまいりましょう。

 

この出来事は הָעֲקֵידָה(The Binding)として‎ユダヤ教そしてキリスト教で長く議論されてきました。

 

ですので、様々な解釈がありますが、ここでは本ブログで折に触れて参照しているユダヤ教研究家・手島佑郎氏の解説に従って見てまいりましょう。

 

まず、1節にこれらのことの後で、神はアブラハムを試されたとありますが、ここに2つの問題があります。

 

「これらのこと」という言葉すが、これは具体的にはアブラハムが息子イサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた(21章8節)こととゲラル王アビメレクと契約を結んだ(同27節、31〜32節)ことの2つを指していると考えられます。

 

手島佑郎氏によるとラビたち(ユダヤ教の教師)は、このアブラハムの行いについて、サタンが神に「アブラハムは、こんなに立派な御馳走や振る舞いをしているけれども、あなたのために山羊の一匹、羊の一匹をささげましたか、ささげはしていないでしょう...アブラハムはためらうでしょうよ」と持ちかけたと推測したというのです(手島佑郎『創世記上』p.127)

 

そこで神はアブラハムを試すことにしたというのですが、ヨブを試すというサタンの誘いに神が乗ってしまったという話と良く似ていますね(ヨブ記1章6〜12節)

 

神がアブラハムを試そうとしたことについては手島佑郎氏は12世紀にスペインで活動したラビ・ナフマニデス(モーゼス・ベン・ナハマン; 1194〜1270年)の言葉を紹介しています。少し長くなりますが、引用しましょう。

 

「人間の行為は全面的に人間の自由意志に任されている。だから彼が欲しないならば、その試みを拒否することもできる。人間は自ら欲しないことはやらない。だからこそ神様はあえて試す。自分の自由な意志で、不合理なことでもやってみるような全面的な服従があるかどうか。それを確かめたいのだ。」(手島佑郎『創世記上』p.128)

 

手島佑郎氏はユダヤ人の試練の本質として神が人を試す理由は自由意志の確認潜在的な信仰が本当に行動で証明されるか神自身が褒美を与えたいの3つの要因をあげておられます(同pp.130〜131)

 

この3つの要因のうち2番めの潜在的な信仰が本当に行動で証明されるかについて私たちは考えさせられます。

 

日ごろ私たちは「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマの信徒への手紙10章10節)という聖句を目にし、耳にします。

 

もちろんそれは信仰生活において大切なことではありますが、果たして心で信じ、口で公に言い表すだけで十分なのかが問われているのです。

 

旧約聖書の創世記だけを振り返ってみても、ノアは神の言葉を聞き恐らくまだ晴天が続いている中で箱舟を造り続けましたし(6章)、アブラハムは主の言葉通り、生まれ育った故郷を離れました(12章)。

 

皮肉っぽく言ってしまえば、「信仰のみ」を主張したマルチン・ルターも自分の「信仰」を貫くために修道会を離れるという行動を起こしていますね。

 

実は、この神の言葉を聞いて行動に移るということは大きな問題をはらんでいます。

 

最後に再び手島佑郎氏の言葉を引用してこの稿を一旦は閉じることにいたしましょう。

 

神様が殺せと言っているのだから、「はい、ごもっともです」と、われわれは無条件・無批判に従うべきなのだろうか。神がっ殺せと言ったことを肯定していいのかどうか...(手島佑郎『創世記 上』p.135)