【中心聖句】
主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された(21節)
今日の旧約聖書朗読箇所には、少年時代のサムエルが祭司エリの下で主に仕えるためシロの聖所で寝泊まりをしていたときの出来事が書かれています。
エリは非常に年老いていて(サムエル記上2章22節)目が霞んで来てみえなくなっていた(同3章2節)とありますので、恐らくサムエルはエリの身の回りの世話をしながら聖所で下働をしていたのでしょう。
眠っている少年サムエルは二度にわたって彼を呼ぶ声を聞きます。エリのところに駆けつけてみるとエリは「呼んだのはわたしではない。戻って休みなさい」と声をかけます。
その時点で少年サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼には示されていなかった(7節)のでした。
そして、三度目にサムエルが起こされエリのところに駆けつけた際、エリはサムエルが聞いたのは主が彼を呼んだ声であることを悟り、もしまた呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と諭したのでした(8〜9節)
このことが起こった頃、主の言葉が望むことは少なく、幻が示されることもまれ(1節)でした。
2章12節以下には祭司エリの息子たちはならず者で傍若無人な振る舞いを続けていたと書かれています。
そこで神はエリに使いを送ってわたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしようと伝えさせたのでした(2章27〜36節)
再び主はサムエルを起こしエリの家に対して行うことを告げました。翌朝、その主の言葉を報告したサムエルに対しエリはそれを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように(18節)といいます。こうしてサムエルは成長し、主の預言者として立てられたのでした(19〜20節)
ストーリーとしてはこれだけであり、確かに雨宮神父の言われるようにほのぼのとしたストーリーのようにも読めます。ただ、こここで一つ注目したいのは少年サムエルは確かに主の声を聞きますがが、主の姿を見たとはかかれていないことでしょう。
このサムエルとエリそして主のやり取りについてフロイトやユングならばどう解説するかも興味があるところです。
最後に少し長くなりますが、1940年代から70年代までユダヤ教のラビ・思想家・哲学者として活躍したAbraham Joshua Heschelの言葉をご紹介しましょう。
From a distance, the word surges forth to land in the prophet's soul. It is more than the sense of being addressed, of receiving a communication; it is more accurate to describe it as the sensen of being overpouwered by the word (Abraham J. Heschel "The Prophets" p.225; イタリック体は原著)