主日の聖書 新約聖書 ヨハネによる福音書1章35〜42節 | 生き続けることば

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【中心聖句】

見よ、神の小羊だ(36節)

 

 

ヨハネによる福音書の冒頭部分、1章19節〜2章12節は「その翌日」(29節、35節、43節)、三日目に(2章1節)とあるように、洗礼者ヨハネとイエスの出会いから弟子の召命に至る一連の出来事を記しています。

 

28節には、これらの出来事が「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」で起こったこととされています。

 

ベタニアという地名はマリアとマルタそして兄弟のラザロが住んでいた村として知られています(ヨハネによる福音書11章)。

 

その村は「エルサレムに近く15スタディオンほどのところ」(11章18節)とありますので、1スタディオン=約185mとしますと、28節に書かれているヨルダンの川向うのベタニアと同じは考えにくいですね。

 

なぜ福音書記者がわざわざここで地名を書いたのかは聖書からは分かりません。

 

閑話休題(それはともかく)。

 

いささか前置きが長くなりました。

 

今日の福音朗読箇所でいくつか鍵となる言葉を見てまいりましょう。

 

まず、37節には洗礼者ヨハネの弟子であった二人がヨハネの「

見よ、神の小羊だ」という言葉を聞いてイエスに従ったと書かれています。ヨハネの弟子たちとイエスの出会いはイエスを見たからではなく、ヨハネの言葉を聞くことによって始まりました。

 

このことは復活したイエス疑い深いトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネによる福音書20章29節)と言葉をかけたというあの有名な出来事の伏線になっているように思えますね。

 

次にイエスは付いてきた二人に「何を求めているのか」と尋ねました(38節)。雨宮神父はこのイエスの言葉は救いへの招きと捉えておられます(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.145)

 

それに対して二人の弟子は「先生はどこに泊まっておられるのですか」(38節)と尋ね、イエスの「来なさい。そうすれば分かる」(39節)という言葉に従って彼のところに泊まりました。

 

このやり取りを字面だけ追えば、二人の弟子は夕刻が近づいて来ているのでイエスの宿泊先を尋ね、一緒に泊まることにした、というだけのエピソードのように思えます。

 

しかし、ここでのキーワードは泊まる(原語では μένω)です。あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない(ヨハネによる福音書11章4節)という有名な聖句でつながると訳されているのも元の言葉は μένωです。

 

雨宮神父によればこの μένωは福音書記者ヨハネが好んで用いた言葉であり(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.164)、自分の居場所を見い出した者がそこに留まることを表しています(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.146)

 

とはいあ、イエスの言葉を聞いてイエスと共に留まった者がそこに居座り続けたというのではありません。

 

今日の朗読箇所の最後には二人の内のひとりアンデレは自分の兄弟シモンに自分がメシアに出会ったことを告げ彼をイエスのもとに連れて来た(40〜42節)と書かれています。

 

こうして、自分の居場所をイエスのもとに見出す者が増えて行くこととなりました。