【中心聖句】
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。(1節a)
今週の旧約聖書朗読は第三イザヤ(56〜66章)からです。
待降節第一主日(12月3日)の『主日の聖書』に投稿した内容の繰り返しになりますが、第三イザヤは
栄光が現れそうもない現実に人々が失望し、神への信頼を弱め、勝手に生き始めたときに、神への信頼を説いた預言者の言葉(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.17)
ということです。
ペルシャ王キュロスの勅令(BCE583)によってバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還し神殿再建も果たしたものの人々は困窮を極め約束された栄光がさっぱり見えない(同上)という状況に陥りました。
イザヤ(第三イザヤ)が主から油を注がれ「主なる神の霊」を受けた(1節)のはそのような貧しい人々に良い知らせを伝えるため(1節)でした。
ルカによる福音書4章16節以下にはイエスが安息日にナザレの会堂で聖書を朗読し説教をする場面が描かれています。
そこでイエスが朗読したのがイザヤ書61章1〜2節であり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉が引用されています(21節)
この点について、雨宮神父は次のように注意を喚起します。
第三イザヤは最初からイエスを預言するために61章を書いていると考えがちですが、第三イザヤ自身の意図はそこにはなく、彼自身の召命を描くことにありました(雨宮慧・同上)
ということなのです。
教会の聖書研究会などにおいて「新約聖書の光を通して旧約聖書を読む」というような言葉を良く耳にします。
確かに旧約聖書と新約聖書を一つのものとして読む姿勢は大事ですが、それが行き過ぎると旧約聖書の中に新約聖書特にイエスに直接繋がりそうな記述を探すということになりかねません。
それの典型的な例がイザヤ書53章の有名な「苦難の僕」ですが、それについては改めて学ぶ機会(カトリック教会暦B年年間第29主日等)がありますので、ここではこれ以上立ち入りません。
繰り返しになりますが、第三イザヤは貧しく、心をへし折られ、打ち砕かれた人々に救いの告知を告げるために主から油を注がれ、遣わされたのでした。