【中心聖句】
わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない(26〜27節)
ヨハネによる福音書は
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(1章1節)
という有名な「ロゴス讃歌」から始まっています。
今日の福音朗読箇所である6〜8節には証し μαρτυρίαと証しをする μαρτυρέωという言葉が合計3回出てきます。
このことから福音書記者ヨハネにとって、洗礼者ヨハネはまさに「光について証しをするために来た」(1章8節)証人だったということが言えるのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.19)
そして、今日の朗読箇所の後半である19節以下でその証し μαρτυρίαについて語られています。
19〜28節は2つに分けることが出来ます(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.22)
19〜23節:
「あなたは、どなたですか」(19節)、「あなたはエリヤですか」(21節)、「あなたはあの預言者なのですか」(同)という祭司やレビ人の問いに対して洗礼者ヨハネは「メシヤではない」(20節)、「違う」(21節)、「そうではない」(同)と答えています。
これは余談ですが、日本語訳聖書について常々、疑問を感じていることがあります。
その典型がこの場面ですが、ここでは祭司やレビ人が洗礼者ヨハネに対して敬語を使い、一方のヨハネは「タメ口」です。しかし、彼らの社会的な立場を考えれば、これはむしろ逆でなければおかしいですね。
閑話休題(それはともかく)。
ここでは「メシヤ・エリヤ・預言者」と出てきますが、当時、週末と深く関わる特別な人物は複数おり、ここに書かれているのが序列ではないということです。
要するに洗礼者ヨハネは自分がそうした何人かの終末的人物ではないときっぱり否定した上でイザヤ書の言葉(40章3節)の言葉を引用し、自分は「告げる」ために遣わされているというのです。
24〜28節:
ここでは共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の並行箇所と同様に洗礼者ヨハネは自分の授ける洗礼が「水による洗礼である」(26節)であるのに対し「後から来られる方」(27節)は「聖霊による洗礼を授ける」(33節)と言います。
ユダヤ教の伝統では沐浴が行われていました。それは日本でも参詣前に神社や寺院の手水舎で手を洗って心身を浄める風習があるのと同じに浄めることが目的でした。
それに対して洗礼者ヨハネによる洗礼は「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」ルカによる福音書3章3節)でした。
イエスの「聖霊による洗礼」はそれらとは全く違います。そして、そのことによって新しい時代が始まる、とされるのです。
【参考】
雨宮慧『主日の福音ーB年』オリエンス宗教研究所
