主日の聖書 新約聖書 マルコによる福音書1章1〜8節 | 生き続けることば

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【中心聖句】

 

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる(8節)

 

今日の旧約聖書朗読箇所で学びましたように

 

第二イザヤは紀元前六世紀に「慰める」神の到来を告知しました(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.15)

 

そして、福音書記者マルコ

 

バビロン解放という出来事をはるかに凌駕する解放をはっきりと目にした(同p.15)

 

のでした。

 

マルコによる福音書

 

神の子イエス・キリストの福音の初め(1節)

 

という書き出しになっています。

 

特に違和感を感じず、すっと頭に入ってくるような聖句ですが、新約聖書学者田川建三氏はここでの福音という言葉について以下のような指摘をしておられます。

 

田川氏

 

実はこの語(εὐαγγέλιονー管理者)をイエスの伝記にあてはめたのはマルコが史上はじめて(田川建三『新約聖書 訳と註 第一巻』p.131)

 

とし、更に

 

そもそもこの語を「福音」という意味に用いること自体、当時のギリシャ語としてはまことに違和感のあることであった(同上)

 

と指摘しておられます、

 

確かに新約聖書ギリシャ語辞典をみると

 

(in classical) a reward for good tidings (Abbott-Smith "A Manual Greek Lexicon of the New Testament)

 

つまり、古典ギリシャ語では良き便りを届けた者への報酬(私訳)という意味であったというわけです。

 

一般的な聖書の読者でしたら「そんなことに拘らなくても」と思われるかもしれませんが、田川氏の

 

マタイは躊躇しながらであろうが自分の文書中でこの語を用いているがルカは一度も用いていない(同p.132)

 

という指摘は大事です。

 

そのような一見、些細と思われるようなことに共観福音書記者三者(マタイ、マルコ、ルカ)の「福音」に対する考え方の違いが見て取れるからです。田川氏によると

 

マルコにとってはイエスの存在自体、イエスの活動の全てが「福音」である(同上)

 

ということになるのです。

 

次に2節以下を見ていきましょう。

 

雨宮慧神父によれば、そこは次のような交差配列法(キアズモ)に基づいた構成になっています。(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.19)

 

2〜3節  ヨハネは「来るべき方」の先駆者(天で)

    4節 ヨハネの活動

    5節 人々の反応

6〜8節  ヨハネは「来るべき方」の先駆者(地で)

 

まず、2〜3節では預言者イザヤの書にこう書いてある(2節)とありますが、実際には

 

2節:出エジプト記20章23節およびマラキ書3章1節

3節:イザヤ書40章3節

 

となっており、しかも3節は七十人訳からの引用です。

 

さらに、4〜8節を交差配列法(キアズモ)で見ると

 

4節  洗礼者ヨハネは宣べ伝えた

  5節   人々の様子

  6節   ヨハネの様子

7〜8節 彼はこう宣べ伝えた

 

という構成になっています(同上p.18)

 

ここでは洗礼者ヨハネの地上での活動が記されていますが、キーワードは「洗礼」で、前半では罪との関わり、後半では「来たるべき方」との関わりにおいて語られています(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.19)

 

4節に「悔い改め」という言葉が出てきます。

 

一般的には「過去の過ちや失敗を反省し心がけを変える」という意味で使われますね。


しかし、ここで「悔い改め」と訳されている原語はギリシャ語のμετάνοιαですが、更にヘブライ語ではתשובה(ティシュバ−)です。

 

このתשובהには「転回する」「振り向く」という意味が含まれています。

 

つまり「悔い改める」とは単に「反省する」「心を入れ替える」だけではなく(それはそれで大事ですが、「来たるべき方」のほう振り向く、全身をそちらに向けて再出発するということなのです。

 

洗礼者ヨハネによって神へと「悔い改める」喜びの時がもたらされました。