【中心聖句】
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む(10節)
今日の旧約聖書朗読はいわゆる第二イザヤからです。
第二イザヤ(イザヤ書40〜55章)とは
1. バビロン捕囚の末期にあたるBCE6世紀末にバビロンで活動していた預言者の言葉。
2. ペルシャ王キュロスこそイスラエルの神が派遣した解放者であり、この解放によって偶像に目を奪われた諸国民が真の神に近づくことになると解いている。(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.12)
ということになります。
今日の朗読箇所について雨宮慧神父の『主日の聖書解説<B年>』(pp.12〜13)に沿って見てまいりましょう。
まず、冒頭1節の「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という言葉についてです。
ここで「慰める」と訳されている原語は נָחַםですが、これには"to console oneself""to be sorry"などの意味があります(Strong's Concordance)つまり、「慰める」の他に「後悔する」という意味もあります。
創世記6章には
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を傷められた(5〜6節)
と書かれています。
ここ後悔しと訳されている原語がまさにנָחַםなのですが、雨宮神父は「この語の基本的な意味は『深く息をつく』かもしれません」(同p.12)としておられます。
私の手元にある聖書ヘブライ語ではそこまで読み取れないのですが、後悔する時には「深く息をつく」というのは日頃の所作として理解できますね。
人間の愚かな行為によって先ず北イスラエル王国そして南ユダ王国が滅び、主だった人々はバビロンでの捕囚の憂き目に遭いました。
地上に愚かさと罪が満ちたことを神は後悔しましたが、バビロンの捕囚民を慰めるために新たな道を用意しました。
それが、ペルシャ王キュロスによるエルサレム帰還と神殿再建の勅令でした。
歴史的に考察してみますと、確かにバビロンでの捕囚からは解放されたとは言ってもかつてのイスラエル王国とユダ王国はペルシャ帝国の統治下にあり、乱暴な言い方をすれば統治者の首がアッシリア帝国、新バビロニア帝国からペルシャ帝国にすげ変わっただけでした。
現に先週見ましたようにイザヤ書56章以下の「第三イザヤ」の基調はエルサレム帰還後の窮状を嘆くものでした。
しかし、第二イザヤにおいては
群れを導く牧者が先頭に立ち、しんがりとなるように、神も捕囚民の先頭に立ち、後ろに回って、彼らを連れ帰ります(中略)第二イザヤの目にはその日の到来がくっきりと映し出されています(同p.13)
ということなのです。