長々と書いてきましたが、漸く北イスラエル王国の滅亡にたどりつきました。
この項を含めて後2回で「南北王国の分裂と北王国の滅亡」は終わりにする予定です。
北イスラエル王国はヤブロアム2世の治世下で領土を拡大し、いわば「中興」の時代を迎えていた、ということは約1ヶ月前に本ブログでご紹介しました。
この背景としてはアッシリア帝国が内乱状態にあって、領土拡大どころではなかったということが挙げられます。
しかしその後、ティグラト・ピレセル3世(在位:BCE744〜727年)が即位し帝国内を平定すると再びエジプトを目指した領土拡大政策を取るようになりました。
その結果として、BCE8世紀後半(BCE750年以降)には大きな戦争がいくつか勃発しましたが、そのうちのひとつとしてBCE734年に「シリア・エフライム(イスラエル)戦争」が起こりました。
ダマスカス、サマリア、ガザ、アシュケロンの各国はアッシリアへの貢納を拒否し反アッシリア同盟を形成しましたが、南ユダ王国はこれに加わりませんでした。
(en.Wikipedia)
そのため、反アッシリア同盟軍はエルサレムを包囲し、南ユダ王国が同盟に参加するように脅し、しなければアハズ王に替わる傀儡政権を設立しようとしました。
そこで、南ユダ王国はアッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世に援軍をしたのです。
これはアッシリア帝国にとっては文字通り「渡りに舟」、BCE732年にはダマスコ(シリア)を陥落し、サマリアを除く北イスラエル王国の領土を自らのものとしました。
このように書きますと、古代オリエントが如何にも敵も味方もない無茶苦茶な状態であったように思えますが、日本の戦国時代でもある国の領主が主君筋を裏切って敵方に寝返るなどということはそれこそ日常茶飯事だったことでしょう。
次回は「サマリア陥落」を取り上げ、この「南北王国の分裂と北王国の滅亡」の締めくくりといたします。