しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった(6節)
今日の聖書箇所には、ファリサイ派の人々がイエスに物事を尋ね、イエスがそれに応える、という福音書には何度も出て来るパターンの話が記されています。
今日の箇所を読んでいてすぐに気が付くことが2つあります。
一つ目は気が付くこと、というより不思議に思う、と言った方が良いかもしれません。
ファリサイ派の人々はイエスに離縁について尋ねた、とあるのですが、なぜ彼らが殊更この話題を持ち出してきたのかは書かれていません。
1節には
群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
と書かれていますし、「並行記事」であるマタイによる福音書19章2節には
大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気を癒された。
と、ありますが、いずれにせよ離縁のことには触れられていません。
もしかすると、イエスの一行が滞在していた町で、町全体の話題になるような離縁騒ぎが起こっていたのかもしれません。
聖書本文に書かれていないことを勝手に読み込んではいけないのですが、この程度に想像を巡らせるのは赦されるでしょう。
二つ目に気が付くことですが、2節以降は
ファリサイ派がイエスに質問をする(議論を吹っ掛ける)
↓
イエスは「律法では何と言っているか」と逆に問う
↓
ファリサイ派がそれに答える
というパターンになっています。
日ごろ聖書に親しんでいる人なら、このパターンが有名な「善いサマリア人」(ルカによる福音書10章25節以下)での律法学者とイエスのやり取りと同じであることにすぐ気づくことが出来るでしょう。
ファリサイ派や律法学者たちは
田舎出の若造に律法が分かってたまるか。弟子や集まって来ている群衆、みんなの前で恥をかかせてやる
という悪意を持ってイエスに難癖をつけようとするのですが、逆にイエスに
あなたたちこそ分かっているのか
と切り返されてしまいます。
律法学者はもちろんファリサイ派の人々は大変に勉強熱心、研究熱心ですから、分かっていないはずはありません。
しかし、彼らは律法に書かれていること及び口伝えに伝えられているその細則と解釈に拘る余りに物事の本質を忘れてしまっていました。
だからこそイエスは6節以下にあるように離縁という男女間の問題について律法云々以前に天地創造に遡って神が男女を創造したことの意味を述べたのでした。
イエスは「最初」に戻ります。そこでは人間の都合が働くことなく、神の意志が明確に記されている(『主日の聖書解説<B年>』)
のです。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所