先日来読みかけた足利義満の本がいまいち読み進まないので、気分を切り替えて電車の中やベッドの中でも読めそうなこれにしてみた。研究者や作家たちの雑談みたいな感じではあるが、面白い視点のものもあった。メモる。

 

 ×阿川佐和子 「磯田道史」ができるまで: 子供の頃、古文書を読むための辞書を古本屋で買った。薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育について。

 

 ×半藤一利 日本史のリーダーを採点する: リーダーのトップは織田信長である。信長的なものとは合理主義、切り捨て力の強さ、効率と能力主義、機能主義、テクノロジーの利用=鉄砲の大量装備。人間はどうせ死ぬというニヒリズムで生きてきた。

 新しい国家のデザインを考えたのは源頼朝。独裁権力を握り、武家政治を始め、経済を政治に取り入れたこと。東は縦型社会、西は同心円型社会。

 強かったのは豊臣秀吉だが、信長の真似をした。軍帥をうまく使ったが、晩年は耄碌した。徳川家康には技術崇拝があった。

 古代では、天武天皇。租税、地方支配、国号を「日本」としたなど。女房の持統天皇はかなりの人物。

 中世では、平清盛と足利義満。東シナ海の交易を利用し、強い政権をつくった。

 

 ×篠田謙一/斎藤成也 日本人の不思議な起源: 日本の先住民と渡来人との間には活発な交流があり、縄文人の遺伝子をもつのは2〜3割、弥生人の遺伝子をもつのは7〜8割と人類学者の斎藤氏は、DNA(母系をたどれるミトコンドリアDNA)の分析結果を紹介した。男系をたどれるハプロタイプY染色体の分析によると、人類のルーツはみなアフリカである。

 日本の場合、アイヌと沖縄の人は遺伝的に近いが、列島部分の日本人のルーツは多少異なる。ミトコンドリアDNAによると、日本には20以上の系統が存在しており、10系統くらいのヨーロッパより多様である。旧石器時代に日本にやってきた縄文人の遺伝子は日本以外では見つかっていない。弥生人は約3000年くらい前からやってきた。縄文人はピーク時に26万人くらいいたが、8万人くらいまで減った。日本語は韓国語など大陸の言語と異なることから考えても、縄文文化は駆逐されたのではなく、弥生人によってうまく取り入れらにられたと考えられる。

 5世紀に日本は朝鮮半島に進出して暴れたが、663年の白村江の戦いに敗れてからは、百済からボートピープル(難民)のように大量の渡来人が流れ込んできた。

 10〜13世紀には、北九州に大量の中国人流入があって中国系DNAが入り、一大チャイナタウンが形成された。倭寇の根城であった済州島人のDNAは日本人とほぼ同じ。

 日本では平等に男子がY染色体を残していることから、征服者としての渡来人はいなかったと考えられる。

 邪馬台国については、九州から東征して河内に入った神武天皇は、当時(3世紀頃?)纏向で繁栄していた邪馬台国には一目を置いていたと考えられる。卑弥呼のことが正史であいまいに扱われているのはそのためだ。

 徳川家の側室の骨格は頑丈であるから、側室は丈夫なことが条件であったようだ。

 

 最新の研究結果はこちら: 第三の渡来人、古墳人の存在。

 

 ×堺屋太一/小和田哲男/本郷和人 信長はなぜ時代を変えられたのか?: 現状維持のための改革に対し、古い体制を破壊し、新しいものを生み出す改革がある。神道と仏教を共存させた聖徳太子、武家政権をつくった源頼朝、天下統一という概念をもった織田信長、明治維新が後者にあたる。

 室町幕府は、各地の守護大名たちを「権威」によって束ねる不安定な支配体制であったが、15世紀の応仁の乱以後は力を失ない、農村共同体を束ねる戦国大名が形成される。それは下剋上という実力主義の競争社会であった。これは経済的には高度成長期であり、技術革新もあり、耕地は拡大し、人口は2倍に、GDPは約3倍に成長した。だが経済基盤は、年貢による税収であり、戰には農民が徴用されていた。織田信長は、このシステムを否定し、農村共同体に立脚しない、商業立国によって天下統一を目指した。ではどのように?

 織田信長は銭で雇ったホームレスのような流れ者の軍団を用いて、農繁期に攻めた。兵農分離を実施し[ガイウス・マリウスのriforma dell'esercito romanoみたい]、傭兵による常備軍を編成した。兵糧攻めも行なった。織田家の収入の1割は商業地からの収入であった。そして「楽市楽座」による経済改革を進め、新興商人による自由商売を許し、城下町を繁栄させた。[信長は鉄砲伝来の6年後に、鉄砲500挺を国友村に発注している。]信長の能力本位、成果主義は組織を活性化させた。流れ者が大将になれたのは、銭で雇った兵隊がいたから。競争原理の人事は新奇な発想であるが、ついていけない人たちの間にストレスをうんだ。大名行列の時、絵描きや碁打ち(一種のスパイであった)を厚遇した。眼に見えるものしか信じない、「信」は眼に見えない、それで自滅したとも言える。明智光秀、荒木村重、松永久秀、三好康長、足利義昭らが反乱逃亡した。領地替えにも部下たちは戦々兢々とした。

 信長は合理主義者なので、奇跡や運をあてにしない。桶狭間にしても、気候条件や地相などを調査し、かなりの勝算を以て作戦を立てたはず。戦国大名は領地を増やすことを考えていただけで、天下統一などは念中になかった。

 長篠の鉄砲三段撃ちは史実ではない。ーが、銃器の集中使用(1000人くらいの鉄砲隊)という戦術はあった。

 中国や四国などに大軍を長期間駐留させるという点では輜重・兵站 Logistica の重要性に気づいた先駆者であった。インフラ整備にも熱心であった。日本の改革のほとんどは外圧のもとに行なわれた。信長を駆り立てたのは、キリスト教であったのでは? 信長サロンの重要な客人はおそらくイエズス会の宣教師であった。

 豊臣秀吉は、織田信長の受け売りで、ヴィジョンがなかったが、ブレーンがいた。

 徳川家康は権力の永続性を目指した。「厭離穢土、欣求浄土」(私たちが住むこの世界は苦悩に満ちた穢れた世であり国土であり、それを厭い離れることを願うことであり、心からよろこんで秩序ある浄土に生まれることをねがい求める)は、自由競争の世界ではなく、質素倹約、ゼロ成長を目指した。家康は、収入が増えなくとも皆が真面目に働くという日本型勤勉思想の基を築いた。

 信長が万単位のジェノサイドを断行したのは、合理主義の冷酷さ。一方、家康は、人を殺す戦国時代を否定しているが、お家断絶、お取り潰しという恐怖政治を行なった。

 茶の湯は茶器のブランド化により、文化・芸術と経済を結びつけた。

 日本人にとって「安定」は重要な価値なので、変化を嫌う。だが本格的な危機が訪れるとやけくそになって、何から何まで投げ捨てて改革を始める。

 

 ×酒井シヅ 戦国武将の養生訓: 16世紀には、西洋医術は外科を除いて、漢方ほど高い水準になかった。1510年には梅毒が入ってきた。朝鮮出兵で罹患した武将は少なくなかったと思われる。75歳まで生きた徳川家康は健康オタクで、漢方薬マニアであり、16人もの子供をもうけた。結核、寄生虫[parassita come tenia]も死病であった。鶴を食べた武将は寄生虫にやられることがあった。毛利元就は名医コレクターであり、長寿であった。北条早雲も養生訓など残し、長寿であった。

 

 ×徳川家広 徳川家康を暴く: 狸親父のイメージは、豊臣側が言っていたのだろう。そんなに狡猾ではなかった。『置かれた場所で咲きなさい』という本のように、徳川家康は国替になった江戸のインフラ整備をして、大都市の基盤をつくった。その姿勢感は「厭離穢土、欣求浄土」であった。競争のエネルギーを破壊した: 上を望まず、分を弁えろ。檀家制度を整え、家意識、先祖崇拝もつくった。

 

 ×浅田次郎 幕末最強の刺客を語る: 浅田次郎の『一刀斎夢録』は、新撰組三番隊組長、斎藤一を主人公にしている幕末小説で面白いらしい。

 龍馬を斬った実行犯は誰か? 今で数千万円もする拳銃を持っていた龍馬は、土佐屈指の豪商のおぼっちゃまだった。明智光秀の関係者の家系だったので忠孝の思想がなかった。龍馬暗殺後は討幕思想で藩論が一致した。ゆえに、薩摩側の暗殺説もあるが、見廻組以外には考えられない。

 新撰組はコンプレックスのかたまりであり、歴史的存在意義はない。新撰組の衣装はおそらく芹沢鴨の趣味。斎藤一は会津藩の密偵だった可能性がある。

 西南戦争は西郷にとっては自殺行為であり、士族の反乱を抑えるための大芝居だったとも考えられる。西郷は近くにいる人と感情的に一体化してしまうところがある。月照との入水然り、西南戦争然り。

 

 ×杏 歴女もハマる! 幕末のヒーローたち: 杏はマンガ『お〜い!龍馬』(小学館文庫) で龍馬を知った。池波正太郎の『幕末新撰組』(文春文庫)から幕末にはまった。永倉新八が好き。磯田道史は乾(板垣)退助が好き。杏は田島カツという女性にも興味がある。『逝きし世の面影』(渡辺京二)に見る外国人を見た日本人の反応。

 

 ×中村彰彦 「龍馬斬殺」の謎を解く: 龍馬は罪を問われていたのだから暗殺ではなく斬殺。土佐勤王党の田中光顕の調査の結論は、龍馬を殺害したのは早川桂之介(桂隼之助)、渡辺吉太郎であった。中村彰彦は、詳細な証言を残した剣の達人、「片手打ち」で有名な今井信郎だと考えている。今井の家伝は重要参考資料である。手代木直右衛門の遺族による伝記『手代木直右衛門傳』には、弟が龍馬を殺した、とある。小御所会議では、山内容堂は徳川慶喜を新政府に迎えないことに反対し、討幕したい薩摩と対立した。

 

 ×養老孟司 脳化社会は江戸から始まった: 養老孟司は脳化社会を問題視している。1630年から1650年にかけては地球規模での寒冷期にあたり、その気候的ストレスにより、生き残るために社会経済の転換が強制された。大災害が続くと、災害に対する馴れが生じ、国民は軍国主義を受容してしまったのではないか。

 子供を自然に触れさせることが大切。都会の人は田舎に参勤交代せねばならない。

 

 ×出口治明 鎖国か開国か? グローバリズムと日本の選択: 江戸幕府はなぜ開国富国強兵をしなかったのか? 鎖国をしなくても西洋列強は日本を軍事的に征服することはできなかったはず。日本は1700年には人口三千万人、これは世界人口六億人の5%にあたる。

 鎖国の原因は、平安後期以降、人口圧の高まった西国において、「悪党」のような武士集団をうまく統御できず、14世紀以降の「倭寇」を生むことになった。前期倭寇はおもに朝鮮半島で活動し、16世紀以降の後期倭寇はおもに中国商人が中国沿岸部を荒らした。日中朝の3国が、3世紀にわたる暴力の海にこりて、平和な海を取り戻すために共同歩調をとったのが、東アジアの「海禁」、日本の「鎖国」であったとも考えられる。

 家康は鎖国路線をとっていなかったが、人口の4%を占めていたキリスト教徒に対して、秀忠、家光が禁教と鎖国政策をとることになる。思想的な軋轢のみならず、大村忠純のように、自分の封土をイエズス会に寄進してしまったキリシタン大名もおり、これはまずいということになる。島原の乱(1637年)以降、1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁じ、宗門改め、檀家制度を整えた。

 1700年をピークに日本のGDPは低迷し、人口は2,7%まで落ち込む。江戸時代の平均身長は日本史上最も小さくなってしまった。

 幕府は徳川支配体制を盤石にするには、大名が農地からの年貢以外の収入を得ないこと、武器の技術水準が均等であること、そのためには、大名に貿易をさせてはならないことが大切だと考えた。それほど貿易は大きな富を産み、軍備を向上させる可能性があった。徳川家の安全保障のために「鎖国」は必要だった。

 しかし、海外からの情報は遮断されておらず、漢訳洋書の輸入は禁じられていなかった。日本に初めて来航し、通商を迫ったのはロシアであった。この外交の蓄積により、幕府は黒船来航にスムーズに対処できた。

 一方、1840年のアヘン戦争は対外危機意識を高め、西洋の先進技術を受け入れざるを得なくなった。

 開国後の近代化がうまく進捗したのは、江戸時代の教育による識字率によるものである。幕末の成人識字率は40%くらであり、武士も庶民も読み書きができた。下級武士は教育に熱心であったし、貨幣経済の発達した江戸時代には、寺子屋による読み書きそろばん、礼儀作法などの庶民教育が普及していた。

 幕末の「攘夷」という思想は、過剰な恐怖心からくるものであった。

 

 ×半藤一利 幕末からたどる昭和史のすすめ: リアリストの勝海舟は、大船と大砲の装備よりも前に、人材育成が必要だから、海軍学校をつくろうとした。攘夷を唱えた水戸のようなアホ。夷狄に日本の地を踏ませない、日本は勝つ、という昭和的な心理構造がすでに幕末にあった。

 山縣有朋の蓄財の話がすごかった。資産が20〜30億って、半端ない。椿山荘が瞼に浮かぶ。日本の陸軍や海軍は武士の世界をひきずっていたか? 日本陸軍は長州が主体。山縣有朋がつくった陸軍には武家文化を感じないが、海軍には薩摩のサムライ的なものを感じる。靖国神社をつくったのも山縣有朋。脱藩して戦没した藩士の霊魂を祀るため、招魂祭をやったのが始まり。招魂祭を初めてやったのは津和野。

 漱石や虚子が兵役逃れをしたのは、百姓や町人とともに、一兵卒として従軍するのはもと士族として苦痛であったから。

 明治に参謀本部ができたのは、海外への膨張主義があった。西南戦争にも情報戦があった。陸軍大学校では、だんだん勝つことばかり考えるようになり、昭和に偏頗な陸軍軍人をうむことになった。

 明治22年、海軍はようやく陸軍から分かれた。日露戦争勝利後の海軍を、秋山真之はひじょうに誇っていた。日本海軍は秋山で勝って、秋山で負けた。

 日露戦争後、華族の爵位を軍人に乱発したのはよくなかった。

 森鴎外は、脚気対策としての麦飯支給に反対し、多くの兵士を死亡させ、爵位をもらえなかった。

 参謀が陸軍を動かすということで、関東軍による満州事変に至った。参謀は、指揮官の補佐であるはずなのが、陸軍では自ら指揮権を振り回した。そのハシリは児玉源太郎だったかもしれない。

 日露戦争後、作戦科を重視して、秀才を集め、情報科の情報を無視し、常識的な人間を排除し、作戦科が威張った。

 プロシア型の国家では、大王がトップダウンで統治するのだが、そのプロシア的憲法をもつ日本では、君主が泥臭い意思で介入しないといけなかったのであるが、昭和天皇は、稟議が上がってきたものは認めねばならないということで、介入できなかった。昭和天皇は軍人として育てられ、大元帥陛下となったが、天皇の命令の下され方は「御爪点」という追認であった。明治天皇だって重臣のいいなりだった。長崎に原爆が投下されても陸軍は強行姿勢を貫いていた。だが昭和天皇と、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言の受諾を決定した。鈴木貫太郎についての本を読みたくなった。半藤一利が書いている。