私はあまり文学少女ではなく、特に日本文学には疎かった。今ごろになってようやくこの本を読んでみた。何かのきっかけでいつかは読まねばと思ったのだが、どんなきっかけだったかは忘れてしまった。漢字の使い方が明治・大正的であり、少し新鮮に思えた[鬼滅の刃的]。例えば、「凝っと」で「じっと」と読む。「六ずかしい」「果敢ない」「有(も)っている」「其所(そこ)」「藻掻き廻る」「已める」「筆を擱く」「胡魔化す」「見縊る」「頗(すこぶ)る」「詰らない」「疳違い(かんちがい)」「笑止千万」「運命の冷罵」などと書いている。「ごうごう鳴る」「ぐだぐだになる」「うんうん汗を流しながら」「ひょいひょいと思い出す」「良心はその度にちくちく刺されるように痛んだ」といった擬音語も面白い。せっかくなのでメモる。

 

 上 先生と私: 大学生[東京帝大の]であった主人公が「先生」と呼ぶようになる男性と鎌倉の海で出会い、東京に戻ってから、その家にちょくちょく出向くようになる[まるでストーカーみたいだ⁉︎]。先生という人は働いておらず、やはり帝大出身で、日がな読書などしてぶらぶら暮らしており、「私は淋しい人間です」などと言っている。雑司ヶ谷の墓所に一人で参詣する習慣がある。先生は、親戚の人から欺かれ、屈辱と損害を受けたと告白する。

 

 中 両親と私: 主人公の父親は腎臓を病んでおり、いよいよ死期が迫ったと見えたので、主人公は実家に戻る。主人公と両親の考え方はまったく噛み合っていない。主人公は先生に手紙を書き、ずいぶん経ってから、主人公は先生からの小説のように長い手紙を受け取る。それは遺書であった。父親の死を見とらぬまま、主人公は東京に駆け戻る。

 

 下 先生と遺書: 先生の身の上話が遺書という形で綴られている。ひじょうに繊細な感情のやりとりである。まずは、先生の両親が急死し、その遺産を叔父がごまかしたことが語られる。さらに、先生が下宿することになった軍人の未亡人とその娘、幼馴染の学友Kをその下宿にいっしょに住むようにしたこと、その学友が下宿の御嬢さんに惚れたという告白を受けた先生は、石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなり、先を越されたなと思う。そして、「狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです」と告白する。つまり、主人公は下宿の奥様に、お嬢さんとの結婚を申し出るのである[不純にして悩ましい三角関係。もっとざっくばらんに、「何、ぼくだって惚れているんだよ、どうしたもんかなあ」みたいな話ができていれば悲劇には至らなかったかもしれないが、二人は口もほとんどきかず、空気は陰鬱である]。そんなことをした先生の気持ちは「鉛のような飯を食いました」の一文が物語っている。そして、それを知った学友がある日自殺する。主人公はお嬢さんと結婚し、その母娘と暮らす、その幸福には黒い影が随いていた。「友人の新しい墓と、新しい妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨を想い比べて、運命の冷罵を感ぜすにはいられなかった」。学友の自殺の真相は主人公以外誰も知らない。「書物の中に自分を生埋にすることができなかった私は、酒に魂を浸して、己を忘れようと試みた時期もあります」と先生は綴る。「Kは、わたしのようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決したのではなかろうかと疑い出した」とも。

 先生は毎月雑司ヶ谷の墓に行く。明治天皇が崩御した時、乃木希典が殉死した。西南戦争で連隊旗を奪われた時から死ぬ機会を窺っていたようである。妻に、あなたも殉死したら可かろうと冗談で言われ、人間の罪を深く感じていた先生はその決断をしたというのである。

 

 明治・大正の人々のメンタリティって真面目すぎる。暗すぎる。