いやはや何とも奇怪な前衛小説であった。まるでM.C.エッシャーの描くトロンプ・ルイユ的空間の中で、夢を見ているような気分なのだ。狐につままれたような、とはこういうのをいうのだろう。図々しくて、慇懃無礼な、さまざまな登場人物の長セリフが続くので、読みにくくはないが長い。939頁もある。一日が何日にも引き延ばされたように時間が延々と続くが、この頁数はわずか数日のことなのである。主人公は初対面の人と話しているうちに知り合いだったような気がしてくる。あらゆる場所にも既視感を覚えるが、扉などを通ると別の空間にトランスポートする。著者が次から次へと紡ぎ出す長せりふによるナンセンスと、主人公と登場人物たちとの錯綜した関係、シュールな空間移動を面白がることができるかどうかが評価の分かれ目となるのだろう。整理しながらメモるが、ネタバレである。面白さを味わうには読破すべし。

 

 主な登場人物は次のとおりである。

 - ライダー: 主人公の世界的ピアニスト。お人よしで、頼み事を断れない。

 - グスタフ: 主人公が滞在するホテルの老ポーター。娘との関係に悩んでいる。

 - ゾフィー: 老ポーターの娘。主人公とは初対面なのだが伴侶のようになっていく。

 - ボリス: 老ポーターの娘の息子、つまり孫。主人公の息子のようになっていく。

 - ホフマン: ホテルの支配人。主人公に対し、慇懃無礼にいろいろ頼み事をする。

 - シュテファン: その支配人の息子でピアノ弾き。

 - ブロツキー: 世間から見捨てられた老指揮者。伴侶に捨てられたアル中。

 - ミス・コリンズ: ブロツキーを捨てた老婦人。

 - ミス・シュトラットマン: 催し物のマネジャー。スケジュール管理をする。

 - フィオナ: 路面電車の車掌。主人公の幼なじみ?

 

 1. 主人公は世界的ピアニストである。危機に瀕しているというある町での公演にやって来て、ホテルに投宿する。そこの老ポーターの長広舌と慇懃無礼な頼み事に圧倒されるが、主人公は決して断らない。主人公のスケジュール管理をする女性も怪しげである。主人公はホテルの部屋に既視感を覚える。

 2. 主人公はホテルの支配人と会う。この人もかなり慇懃無礼に多くの頼み事をしてくる。この人が言及するブロツキーという人物も奇妙だ[読み進むうちにこの人はこのたびの催しにおけるオーケストラの指揮者だが、伴侶に捨てられたアル中であることがわかる]。その支配人の息子も慇懃無礼である。やはりピアノ弾きなのだが、自信がなく、主人公に聴いてもらって意見を聞きたいと頼んでくる。今度は、先ほどの老ポーターが自分との親子関係に問題を抱えた娘の相談に乗ってほしいと頼んでくる。主人公は部外者だからと言いつつも断れない。

 3. 老ポーターの勧めに従い、主人公は旧市街に出かけ、彼の娘がいるカフェを覗き、娘とその息子を認める。主人公は、その娘ゾフィーに見覚えがあり、彼女と家を買う話をしたような気がしてくる[主人公は三日間の滞在中、彼女の伴侶、その息子ボリスの父親のようになって過ごすことになる!?]。

 4. 家族のようになった三人はアパートに歩いて帰ろう(?)とするが、ゾフィーの歩くのが早くて見失う。路上、主人公は学生時代の同級生に再会する。主人公はボリスを息子だと言い始める。同級生に勧められてバスに乗ることにする。

 5. バス停にいると、支配人の息子が現われ、ホテルでジャーナリストが待っていると告げる。彼が車でホテルに送ってくれることになるが、ある老婦人[ブロツキーのもと伴侶]との用事が済むまで待ってくれと言う。彼はその老婦人を動物園行きのグループに加わるよう誘う使命を担っていた。主人公は夜遅くなったのでボリスをホテルに泊めることにする。この段階では自分を「おじさん」と呼んでいる。

 6. 支配人の息子は運転しながら両親との確執、自分のピアノの学習歴や技量について想起する。主人公は我慢強くそれに耳を傾ける。彼も催しで演奏することになっているとのことである。

 7. ホテルに戻り、少年の部屋を用意してもらう。夜遅いのだが、フロントマンは主人公に映画館に行くよう勧める。ゾフィーから電話があり、彼女は向かいにいるという。老ポーターが現われ、娘との関係がこじれた経緯を延々と主人公に語る。

 8. 主人公は夜の街へ出て、ゾフィーと会い、二人で映画館へ行く。とても混んでいる。映画を見ながら主人公はゾフィー母子との六、七年前の記憶(?)を蘇らせる。映画館である市議会の一員に話しかけられる[この映画館では誰もが喋りまくっているのだ!?]。映画は『2001年宇宙の旅』だがキャストが異なる。この町のクリストフなるチェロ奏者についての長広舌。

 9. 主人公は、カードゲームをやっている人々と出くわし、クリストフとその伴侶についての話を延々聞かされる。ブロツキーが図書館に愛犬を連れてくる話も[!]。

 10. ホテルに戻り、眠っていた主人公は支配人からの電話で起こされるが、夜更けなのでガウン姿のままでロビーへ下りると、ブロツキーの犬についての訃報を聞かされる。そして主人公は車に乗せられ、夜の大渋滞の中を進む。支配人は部屋をよりふさわしいものに変えると告げる。ブロツキーの犬の話も延々と。大広間のパーティ会場に至り、あるじとおぼしき伯爵夫人に迎えられる。ブロツキーが主賓の一人であったので、ここでもその愛犬のことが話題となり、獣医が責められる。客たちはダイニングルームへ移り、ブロツキーの愛犬への弔辞、黙祷などがあり、主人公のスピーチの番になるが、ガウンの前がはだけて裸体がのぞく。ブロツキーは犬より女が欲しいと言う。主人公のスピーチはナンセンス[完全にコメディー]。支配人の息子が主人公を送るという。主人公はいつのまにか滞在しているホテルのアトリウムにいた。支配人の息子は強引に自分のピアノを主人公に聴かせる。疲労感に襲われた主人公はロビーへと戻る。

 11. 主人公が目覚めると新しい部屋に移るように言われる。廊下でボリスと出会い、朝食をとりに行く。そこで会った支配人の息子にピアノ演奏のコメントを与える。主人公はボリスと、前のアパートに忘れてきたものを取りに帰ることにするが、記者に見つかり、取材と撮影を承諾することとなり、ボリスをカフェで待たせる。

 12. カメラマンがサトラー館をバックに撮りたいというので、路面電車に乗る。乗車券を持っていない主人公の前に車掌が現われるが、彼女が幼なじみのフィオナであったことに気づく。彼女の昔話の回想と長広舌。路面電車が目的地へ着く。

 13. 主人公は記者たちと丘へと登り、白い建物の前で撮影していると、クリストフなる人物(チェロ奏者)に挨拶される。強風が吹いている。ヴァーデンベルガーの森にある邸宅での昼食会に主人公は出席することになっているようで、クリストフの車に乗せられる。

 14. 車は道路沿いのカフェで止まった。わけのわからない会合。主人公はボリスを待たせていたことを思い出す。なぜかそのカフェはボリスの待つカフェと同じ建物にあることに気づく。主人公とボリスは前のアパートのそばにある人造湖へ行くのに、バスに乗るのを勧められる。

 15. 主人公とボリスはバスに乗る。人造湖に着く。寒い。湖の周囲を回るが前のアパートはみつからず、ようやく見つけても留守であった。ボリスは、そこでかつて戦っていた街のゴロツキと戦うジェスチャーをする。主人公はホテルに戻ろうとするが、ゾフィーの家に招き入れられる。夕方のカーヴィンスキー・ギャラリーでのレセプションに間に合うようにしないと、とあせると、がっしりした女性が自分の車を使えと言ってくれる。その女性が幼なじみのフィオナだと気づく。彼女は、主人公を連れて女友達のところに立ち寄るのだという。

 16. フィオナの友人宅で女性たちはしゃべりまくっている。ブロツキーが動物園に案内され、そこにミス・コリンズも同席するという手筈になっていた云々、当日の二人の様子など。だが、フィオナの連れが主人公のライダーさまだとは気がつかず、いけすかない男だと言われ、追い出される。

 17. 主人公はギャラリーに急ごうとする。車にはゾフィーとボリスが乗っていた。人に道を聞くと、赤い車の後をついていけばよいと言われる。しかしハイウェイのカフェに寄るはめになる。スケジュールが気になり、ミス・シュトラットマンに電話する。主人公はあせっているのに、ゾフィーとボリスは落ち着いている。

 18. ギャラリーは草原の中、泥道を走ったところにあり、フランスの古城のようである。駐車場にある壊れた廃車を見て、それが自分の父が乗っていたものだと思い出し、また回想が始まる。三人はようやくレセプション会場に入る。

 19. その屋敷はなんと、昨晩ホテルの支配人に連れてこられた屋敷であった。今朝取材された新聞がもうあり、その写真が物議をかもしていた。支離滅裂な集まりである。主人公はこの屋敷がホテルに通じていることを思い出し、扉をあけるとそれは掃除道具倉庫。別のドアをあけてようやくホテルに戻れた。

 20. ホテルに戻った三人はポーターのグスタフに会う。非常口から外へ出て、おなかがすいたので、ゾフィーたちのアパートへ行き、食事をする[近いようだ!]。外に送り出された主人公はホテルへの道を探す。これが二日目の夜である。

 21. 目覚めた主人公は、その日の催しのためにホテルの朝食サービスがないことを知る。ブロツキーのもと伴侶ミス・コリンズを訪ねようとするが、道がわからない。路上でホテルの老ポーターに会い、道案内してもらいながら、また頼まれごとをされる。ミス・コリンズはお悩み相談所でもやっているのか、来客が複数いる。その中には主人公のクラスメートもおり、昔の記憶がよみがえる。

 22. ミス・コリンズの家を、花束を手にしたブロツキーが訪ねてきて、また彼女と寝たいと喋り出す[この長セリフはあまりに滑稽!]。そしてミス・コリンズに墓地で会ってほしいと提案し、断られる。二人はシュテルンベルク公園へ向かう。そうこうするうちに、主人公は今夜両親の前で演奏するのに何週間もピアノにさわっていないので不安に駆られ始める。意を決してホテルに戻り、ブロツキーを置き去りにする。

 23. ホテルにはゾフィーがいてまた図々しい頼み事をしてくる。ボリスもいる。ホテルの支配人は談話室を閉められないからと、狭い個室に案内する。だが、まったくプライバシーが保てない空間なので、主人公が他の場所を所望すると、別館へと案内される。

 24. 近道だからと談話室を通り抜けて駐車場に出て、支配人の車は田園地帯を走る。その間、支配人は私生活の有象無象を語ると、別館とやらの建つ丘の裾で降ろし、建物の鍵を渡して立ち去り、二時間後にむ末に来ると言って立ち去る。

 25. 主人公はピアノを弾き始めたが、途中で地面を掘る音に気づき、ブロツキーが愛犬を埋葬する音だと思い当たり、後で彼に声をかけようと思う。ブロツキーは愛犬のためのピアノ演奏について礼を言った。さらに、その墓地で行われていた知らない人の埋葬への参列を頼まれ、請けあう。参列者たちはケーキやペパーミントキャンディーを勧めてくる。墓石によじ登ったブロツキーはしかし、老いぼれの酔いどれと怒声を浴びせられる。丸顔の青年や老議員が今夜のコンサートのことを思い出させ、主人公はあせる。

 26. 待っていた支配人の車に乗り込み、主人公はコンサートホールへ急ぐ。車中でまたぐだぐだ。催し物は支配人の息子のピアノ演奏から始まる予定であった。支配人は途中で主人公を降ろし、すぐ近くなので、ドーム屋根をめざして徒歩で行けと言う。歩いていくと、レンガ壁にぶち当たり、進めない。カフェの椅子にへたり込んだところ、ホテルの老ポーターが声をかけてきた。そこは旧市街で、ハンガリアン・カフェ[ポーター仲間の溜まり場]が目の前にあった。

 27. 主人公はポーターたちに歓迎され、感謝される。段ボール箱を操る演技が披露され、ボリスの祖父グスタフも演壇に上る。重いスーツケースを操らねばならず、孫は心配してもうやめてと叫ぶ。疲れた様子の主人公を店主が気づかい、休ませる。

 28. 主人公は目覚め、休んだことを後悔するが、まだ夜であった。外に出てコンサートホールを探すと、女性に出会う。ホテルの支配人の妻であった[彼女は主人公のファンで報道記事をアルバムにしており、それを見てもらいたかった]。彼女はクリストフについて「人間は年をとり、自分のなかの一部が死にはじめる、たぶん感情の面でも」と語る。彼女は建物の裏に案内し、楽屋口だと、台所につながる入口を示した。

 29. 主人公は、観客が入る前にコンサートホールとピアノを下見したかった。そこへポーターの一人が現われ、グスタフが倒れたと言う。主人公は、グスタフのために、娘ゾフィーと孫ボリスを呼びに行くことにする[あらまあ、電話のない時代みたいですね]。ホテルの支配人に会ったので、車を出してもらおうとする。支配人はブロツキーについての話を始める。多少のウイスキーを飲んだ、家の戸棚にまだ酒を保管していたのを見つけた、と。主人公はそれを急かして、車のキーを受け取る。

 30. 途上、コンサートホールの正面玄関に至るが、ゾフィーのアパートへと急ぐ。途中、学生時代の同級生に会い、誘われ、しぶしぶ車を降りる。熱いコーヒーを飲んでいると、ごましお頭の男[外科医]から相談を受ける。ブロツキーが泥酔して自転車に乗って事故にあい、足を切断せねばならないようである。外科医はそのための刃物を探している。探すと、借りた支配人の車のトランクの中に弓ノコがあった。主人公は森の電話ボックスからゾフィーに電話(長電話)し終わると、外科医がノコギリを引いていた。

 31. 主人公は森の中を走り、ゾフィーのアパートへ着く。母子は後部座席に乗り、コンサートホールの楽屋へ急ぐ。

 32. そこへブロツキーが到着する。アイロン台を松葉杖にして歩いている。時々するりと開きそうになるのが困ると言う[ブロツキーの存在はおそろしく滑稽だ]。ブロツキーはもともと義足で、外科医が切ったのは義足だったのだ!! 空っぽのズボンがひらひらしているのを切るのにハサミがいるとも言う。主人公はグスタフの容体が気になっていた。

 33. グスタフのところでは、ゾフィーとボリスがおり、医者が入ってきたので、主人公はコンサートの催しが気になって抜け出す。

 34. 主人公は高いところからホールを見下ろしていた。シュテファンはピアノを弾き始めるが両親が立ち去るのを見てすぐに演奏を止め、ステージから立ち去った。両親を引き止めることができず、再びステージに戻り演奏し、熱狂的な拍手を受ける。詩の朗読があったりしてからいよいよブロツキー登場。アイロン台の松葉杖で。その指揮はすばらしく、聴衆も魅入られた。彼の指揮は躁病的になり、音楽は危険なまでの邪道の領域へと突き進む。最後はバランスを失い、ひっくり返る!! [やはりこの小説はコメディーなのだ!]ミス・コリンズは彼のもとを去る。

 35. 主人公はミス・コリンズを追うが無駄であった。ホテルの支配人はこの後に及んで妻のアルバムをライダーさまに見てもらいたがっている。今夜のすべてが崩壊していく。世界最高のピアニストにもそれを救えはしない。主人公は両親のことが気になり、ミス・シュトラットマンを訪ねる。

 36. ミス・ショトラットマンは、主人公の両親がこの町に来るというのは本当かと逆に尋ねる。見つからなかったので何もできなかった、と。そして両親が昔この町に来た時の話をしはじめる。主人公はそろそろ自分の出番だと思い、退出する。

 37. だが、ホールには聴衆は一人もおらず、座席もすべて取り払われている。シュテファンが現われ、ブロツキーが聖ニコラス施療院に収容されたと語る。そして本人はこの町を出ていくことに決めたという。主人公は空腹を覚える。町の人々が朝食を楽しむ温室がある。今度はポーターたちがやってきて、グスタフの訃報を告げる。

 38. 空腹のまま温室を立ち去った主人公は、路面電車に乗り込む。それにはゾフィーとボリスも乗っていた。主人公といっしょにいたいというボリスに、母親は、本当のお父さんのようにあなたを愛してはくれないわ、と言い、二人は消える。電車の後部座席のあたりにビユッフェのようなものがあり、皆、朝食をとっている。電車は町を循環している。主人公は座席に戻り、朝食をとる。

 

 解説者は、ボリス、シュテファンは主人公の昔の姿であり、物語はマトリューシュカのようなのだと言っているが、いまいち違う気もする。こんな小説を書いて楽しんでいるカズオ・イシグロはやはり面白い物書きである。ピランデッロ的でもある。