かつては西洋史的な書物ばかり読んでいたが、このところ日本史的なものに食指が動いている。今度は、天神様として知られる菅原道真の本にしてみた。平安時代、日本の政治経済が、天皇の外戚となった藤原氏によって乗っ取られ、国庫が破綻しつつあった時、ひたすら一人で藤原北家に挑み、左遷されて果て、後に天神として祀られた茂才俊英、菅原道真の話。光源氏の時代の王朝の政治体制、荘園と藤原氏、武士の台頭について勉強になっただけでなく、内裏の女性たちの存在の大きさもよくわかった。菅原道真は人間味に乏しかったような気もする。メモる。

 

 序章 在五と呼ばれた男: まず在原業平の話。桓武天皇の曾孫にあたるが、祖父の平城帝が「薬子の変」で失脚したため、父の阿保親王の子息は臣籍降下し、在原という姓になる。在原業平は五男なので「在五」と呼ばれた。容貌に優れ、和歌の才があり、多くの女官と浮き名を流した[光源氏の多々あるモデルのひとり]。彼は蔵人として、惟喬親王と恬子(やすこ)内親王をお世話していたが、五節舞の場である少女を見初める。藤原高子(たかいこ)であった。父の藤原長良のもとに通い始める。少女の異母姉の淑子(よしこ)は異母妹高子に嫉妬した。文徳天皇が崩御し、皇位継承についての不改常典を無視して藤原良房により立太子していた惟仁親王が即位し、清和天皇となると、幼少ゆえに藤原良房が太政大臣として補佐する。高子は兄の基経の計らいで入内させられることとなり、在五と引き裂かれる。

 傷心の在五を兄は励まし、菅家廊下(文章博士、菅原是善の私塾)に行くよう勧める。この私塾で若い塾頭の美男、橘広相(ひろみ)に出迎えられ、さらに幼い少年に教えを乞うこととなる。

 

 第一章 菅三と呼ばれた少年: その少年は菅原家の三男道真であり、菅三(かんさん)と呼ばれていた。在原業平は、一の宮の惟喬親王ではなく、藤原良房が孫の四の宮を皇太子(清和天皇)としたことに憤っていた。菅原道真は、塾頭であった島田忠臣の娘(十歳)を妻としており、西京にあるその館に通っていた。その晩、妻と業平について、承和の変について語る。

 藤原淑子は、高齢の藤原氏宗の後妻となり、掌侍(ないしのじょう)として宮中に仕えることとなる。後宮を支配するための良房の思惑であった。高子の入内も然り。

 862年、菅原道真は文章生の試験に及第する。源能有と親しくなる。

 在原業平は右馬頭となり、伊勢国へ赴くことになる。そこには、業平を慕う恬子内親王が斎王となっている。

 866年、平安宮の応天門が炎上する。業平の兄、大江音人が菅原院に現われ、火災は左大臣源信(まこと)の指示によるとの訴えがあった、これにより、右大臣の兵が左大臣を捕縛することになる。音人はそれを阻止すべく、道真を伴い、太政大臣良房に会いに行き、左大臣を救うことができた。夏になり、訴えた本人の放火であることが明らかになり、左大臣右大臣は空席となり、良房の独裁が実現する。

 その頃、伊勢の斎王が懐妊出産したという噂が広まり(『伊勢物語』となる)、業平に執心であった高子は恋を諦め、入内。二年後に陽成天皇となる貞明親王を産む。

 同年の年末、菅原道真は藤原氏宗に呼ばれ、自分の没後は妻の淑子をよろしくと頼まれる。淑子は聖王を育てたいので、自分の育てる皇子[定省(さだみ)王(後の宇多天皇)]に帝王学を伝授してほしいと道真に言う。

 

 第二章 高子の悲恋と淑子の野望: 867年、菅原道真は、文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に選ばれた。菅家廊下は、都良香巨勢文雄らの儒家により批判され、道真を目の敵にしていた。道真はしかし方略試の合格を目指して猛勉強していた。そして都良香の弟子であった紀長谷雄に慕われて弟子とし、親しくなる。彼には鬼が見えると言っていた。そして孤高の人、道真にとっては生涯の友の一人となる。道真は文章博士となるべく勉学に励む。

 貞観年間には噴火、津波、地震、洪水などの自然災害が多発した。871年春、道真は太政大臣良房の邸に招かれ、承和の変、応天門の火災などについて語らう。

 872年、空席であった左大臣に源融が、右大臣に藤原基経が任じられた。友人の源能有も参議となる。この年には太政大臣、藤原良房が他界。その猶子、基経に招かれて、国の羲について問われる。翌年初夏、菅家廊下を淑子が訪ね、定省王を弟子とするように言う。そして道真の妹類子(ともこ)が道真の養女として時康親王(後の光孝天皇)の宮に出仕することとなる。

 在原業平は、鴻臚館の接待係として復務していた。その業平に道真は和歌の指南を乞うと、染殿での歌会に誘われる。業平はこのとき「ちはやふる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは」を詠む。御簾が開いて高子の姿が見えた。それは高子の傍らの屏風を詠んだものであり、二人は見つめ合っていた。[この歌にこんなに切ない悲恋の話があったとは知らなかった。]なお、高子の産んだ皇太子は愛情不足のためか不吉な泣き声を上げていた。

 

 第三章 文章博士から讃岐守へ: 874年、菅原道真は従五位下に叙され、主税財務を管理する民部少輔となる。

 876年、陽成天皇が即位。皇太夫人(こうたいぶにん)となった高子は大原野神社に参詣し、在原業平が随行する[辛い空気]。その翌年、業平は東国に下る。

 877年、道真は式部少輔となり、秋には文章博士に任ぜられる。父は文徳実録の編纂にかかっている。その邸宅には見事な梅が植っている。その父は880年に没する。

 そして同年末、清和上皇が薨じる。その臨終を看取った源融が太政官の総帥となる。そして道真を六条河原院に招き、皇位継承について問う。

 また当時は、朝廷の財政が破綻していた。税収の不足には根深い原因があると思われた。883年には、咳逆病がまた流行し、道真の次男と三男が没す。道真は父の邸の北側の邸を買い入れ、そこを菅家廊下(紅梅殿)とし、南側(白梅殿)を住居や書庫とした。その秋、道真は藤原基経の別荘、白川殿に招かれ、太政大臣の職掌について尋ねられ、通常は不要の役職と答える。そして、雅楽を舞う貞和親王(清和天皇の八の宮)を見て高子が、帝に弟の貞和親王に譲位せよと言ったので帝が悩んでいる、とも。さらに淑子が、(定省王を帝に)と言い出した、とも。そのような例は桓武天皇の時にある、と道真は答えた。そしてしつこく譲位を迫る母の高子に暴力を振るいそうになった陽成帝を止めようとした源益が落命し、この事件の結果、帝が交代することとなる。そして時康親王が選ばれ、光孝天皇となる。

 886年、道真は讃岐守に任じられ、現地に赴任する。空海の築いた満濃池によって開発された墾田が貴族の私有地(非課税の荘園)であり、また私有地の下人は戸籍に登録されていないので人頭税もかけられておらず、国税の収入にはつながっていないことなどを知る。地元豪族が開墾した土地も藤原家の荘園として登録され、税を免れている。上国とされる讃岐にも貧民があふれていた。不正を摘発することは、藤原北家を敵にまわして戦うこととなるのであった。

 

 第四章 見果てぬ夢: 887年、光孝天皇が病み、臣籍降下して源姓となっていた定省王が皇太子に指名され、宇多天皇となる。高子の姉の淑子の猶子であり、道真の弟子であった。道真は帰京を命じられる。宇多天皇は聖王となるであろうと期待される。藤原基経が関白となるも、文章博士の橘広相が「阿衡の任」に就けと言ったことで、基経は政務を拒否し、道真を呼んで職掌を確認しようとする。関白には内覧の職掌がある、と道真は答え、阿衡の紛議は解決した。

 890年、道真は残りの任期を終えて京に戻る。僚友の橘広相が病気に伏せ、紀長谷雄が頭角を現していた。翌年、道真は天皇の側近たる蔵人頭に任じられ、文官として昇進し続ける。藤原北家は基経没後、権勢を失っている。道真の出世、美貌の人、源光の妬みを買う。源光らは遣唐使の計画により、道真を追い払おうと考えるが、889年に廃案となる。道真は侍従を兼ねることとなり、翌年には従三位中納言に昇る。源光と同格である。敦仁王の立太子に際して、道真は幼い宇多天皇に譲位し、太上天皇として帝を支配するよう勧める。天皇は道真の娘を斉世親王に嫁がせるよう命じる。

 897年、右大臣源能有が没すると、藤原時平が大納言、源光と菅原道真が権大納言となる。時平と道真は内覧の宣旨を受ける。実質的には道真の独壇場となる。

 藤原佐世(すけよ)は、道真に対する敵意に用心するよう忠告する。特に、菅家の門下ではない儒者、三善清行藤原菅根大蔵義行などに。藤原清貫が抗議、批判にやってきたこともある。道真は上皇の権威のもとで執務を遂行する。

 899年、藤原時平が左大臣に、菅原道真が右大臣となる。内覧と右近衛大将を兼ね、絶頂にあった。中納言の藤原国経が、若い絶世の美女、在原業平の孫を娶ったと自慢し、次いで、自分の妹の淑子と二条后(高子)の動きに注意するよう忠告してくる。

 時平は藤原北家と関わりのある天皇を擁立したいと考えていた。時平の弟、藤原忠平は、道真の縁戚となっていた。宇多天皇が即位した直後、陽成院が禁中に乱入しようとして阻まれたことがあった。その陽成院が重祚を企てているという噂があり、二条后が動く可能性があると、忠平は道真に告げる。

 二条院より呼び出された道真は、陽成天皇の譲位について尋ねられる。

 数日後には淑子から呼び出される。その傍らには斉世親王と妃がいた。

 道真は紀長谷雄から、周りに鬼がたくさん見え、気になると言われる。

 今度は、儒者の三善清行が訪ねてきて、辞任を勧めてきた。次いで、年末には源光がやってきて、廃帝を画策している二条后と会ったこと、淑子と会ったことを責める。年が明け、901年、正月二十五日、道真は突如、太宰権帥に任ぜられ、兵に囲まれて現地まで護送されることとなる。謀反人としての罪状であった。宣命を聞いた宇陀院が内裏に駆けつけるも、入場は拒まれ、なすすべはなかった。

 家を去る時に詠んだ和歌「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主人なしとて春を忘るな」。そして妻宣来子(のぶきこ)を思い、生涯で唯一の恋歌を詠む。「君がすむ宿の梢をゆくゆくと かくるるまでもかへりみしはや」。

 

 終章 天神伝説: 菅原道真は粗末な馬車で陸路千五百里を太宰府へと落ち、二年後、903年二月に没した。

 朝廷の財政は破綻寸前であったが、白河院により改革が推進された。白河院は平忠盛、清盛らの武士を国司に起用し、荘園の利権を剥奪し、財政再建に寄与した。こうして貴族社会が崩壊し、武士の時代に移行するのである。

 道真を排斥した人々のその後: 908年、藤原菅根は謎の熱病で没する。909年、藤原時平も熱病で悶死。913年、右大臣源光、狩猟の折に雷雨となり、泥の中に沈む。923年、皇太子保明親王(亡き藤原時平の孫)が熱病で早世。930年、清涼殿に落雷があり、数名の死者、その中に藤原清貫も死体もあり。醍醐天皇も病臥し、薨去。

 次の朱雀天皇の御代には、平将門の乱、藤原純友の乱、富士山噴火などの天災も相次ぐ。僧の道賢が、地獄でこれらの人々に会ったという噂が広まる。[相次ぐ災厄は道真の祟りだと人々は考えた。]

 多治比文子という老女に北野に天神を祀れというお告げがあった。その後も北野に祀れという神託があり、959年、神殿が築かれ、987年、勅祭が執り行われ、北野天満宮という称号が贈られ、993年、菅原道真に正一位左大臣が、さらに太政大臣が追贈された。