私はこの作家の本を読んだことがなかった。『等伯』という小説で直木賞を受けているとのこと。先ずは、戦国時代の短編を集めたこの本を読んでみた。各章の主題はややマイナーかもしれない。だが、火縄銃のこと、銀山開発と精錬のことなど、興味深い点もあった。

 

 海の十字架: 大村純忠の話。この人を日本最初のキリシタン大名にしたのは、近衛バルトロメオという公家であった。[この人は実在するのだろうか? 検索しても見つからない。]前関白近衞稙家の庶子(近衞稙光)で、ヴィレラ神父により改宗したという。ポルトガル船の寄港によって、平戸が年に一千貫(約16億円)を得ていたとは! 肥前の大村藩にその儲けがまるごと移行する経緯が語られる。ナウ船による南蛮貿易の拠点が平戸から横瀬浦(佐世保湾内)へ、さらに長崎に移った理由は、松浦藩における騒乱「宮の前事件」(1561年に14人のポルトガル人が殺された騒乱)であったようだ。この南蛮貿易と石見銀山から採れる銀の関係、それを巡る争奪戦、毛利氏が朝廷に献上、これらの動きも関係があったのだ。横瀬浦は女房奉書により開港されるが、後藤貴明らによって襲撃され(この時、ドン・ルイス朝長新助も殺された)、廃れる。大村純忠は、トーレス神父によって家臣とともに受洗し、仏像を燃やした。横瀬浦に代わり、1568年、長崎開港。[この作家の衆道の描写には品格がない。]

 

 乱世の海峡: 宗像大社の大宮司にして宗像氏の当主、宗像氏貞の話。弘治三年四月、豊後の大友宗麟の兵により宗像神社[辺津宮]の本殿が焼かれた(1557年、氏貞が十三歳で家督を継いでまもなく)。大友氏より服属を強いられる。[中国地方は、室町時代は大内家の支配下にあったが、家臣の謀反をきっかけに大内氏が没落し、代わって安芸の毛利が台頭した。]八万の大友軍が豊前、筑前をすさまじい速さで制圧する。秋になると、博多の豪商神屋[紹策は宗湛の父]と宗像水軍の頭が宗像氏貞に会いに来る。灰吹法という銀の精錬により、石見銀山を開発発展させて莫大な富を築いた神屋は、石見銀山を手に入れた尼子が鉛の交易をも支配しつつあると語る。

 1558年の年が明ける。豊後に亡命し、大友宗麟に召し抱えられていた鎮氏(しげうじ: 父正氏の甥の弟)に家督を乗っ取られるというおそれがでてくる。

 

 海の桶狭間: 尾張の服部友貞の話。津島湊、天王祭の宵祭の場面。甲冑をつけての競泳「水練くらべ」で、織田家と近在が競う。昨年は潜水により信長が勝った。その雪辱を心に、このたびは友貞が勝つ。石見銀山が開発されると、商業、流通を掌握した戦国大名が台頭してきた。その筆頭が織田信長である。友貞にとって、その信長は父の仇であった。ある秋の日、大型船が沖から島に接近してきて空砲を放ち、入港を告げてきた。それは信長の船であり、信長本人が友貞に織田水軍の大将になってくれと言ってきたのである。返事をしぶっているうちに、年が明け、今川義元が尾張に侵攻しようとし始めていた。この桶狭間の戦いに、友貞は今川方に加勢を決め、敗れる。信長への抵抗はその後も続く[服部友貞は1568年、織田方の刺客に囲まれて自害した]。1574年、伊勢長島の一向一揆の際にようやく双方の戦いに決着がつく。

 

 蛍と水草: 三好四兄弟の話。淡路水軍を率いる安宅冬康[三好長慶の弟]は、岸和田城の城代、松浦主膳から、松永弾正の奸計について発覚したことがあると言われる。根来の鉄砲衆が三好実休を討ち取り、彼らを捕らえたところ弾正の命だと白状したのである。1562年、畠山高政が岸和田城を攻め(久米田の戦い)たときのことであり、その二ヶ月後に三好勢は岸和田城を奪還したが、実休の死は痛手であった。

 1563年、実休の法要に際し、その下手人を弾正の前に引き出して糾問しようと考えていたが、銃声がして計画は潰れ、根来衆により下手人が奪い去られた。その後も松永弾正によると思しき、主家乗っ取り作戦が続けられる。それを阻止しようと、三好義興の家督相続を急ごうとするが、義興が急病にかかり、他界する。

 三好家の後継について、松永弾正は、十河一存の子重存(しげまさ)を長慶の養子とし、将軍義輝の妹と縁組させ、家督相続させ、三好義重と名乗らせ、後に義継と改名させた。義興の葬儀の席で、安宅冬康は松永久秀の不審な動きを糾弾するが、ぬらりと躱される。その後、冬康は隠居し、兄長慶から連歌の会に呼ばれる。兄弟は二年前にも飯盛山城で蛍と水草の歌を詠み交わしたことがあった。このたび、その連歌の会で、冬康は銃撃されて他界する。その二ヶ月後、兄の長慶も精神錯乱により他界する。さらに翌年、三好義継らによって将軍足利義輝が殺される。

 

 津軽の信長: 津軽為信の話。大浦為信は、兄弟分の蠣崎慶広と蝦夷地の産物を小浜に運ぶという交易で儲けていた。織田信長の活躍を聞き及び、自分も野心を抱く。

 為信は父が誰か母貞子から聞いていなかったが、大浦城主為則の養子となり、家督を相続し、大浦為信となっていた。勢力拡大を図り、南部氏の居城、大仏ケ鼻城を攻める訓練を行なう。慶広と組んで小浜への交易による増収も図る。

 1571年、南部高信を大浦城に招くことにするが、代理の重臣がやって来る。為信はこの者たちを三日にわたってもてなす。その翌日、補修した堀越城を使者たちに見せ、もてなし、閉じ込める。目と鼻の先にある大仏ケ鼻城に進み、使者たちの帰城と偽って城門を開けさせ、高信を斬って、落城させた。為信二十二歳の時であり、こうして津軽統一への道を歩み始めた。

 

 景虎、佐渡へ: 長尾景虎が佐渡を訪ねる話。古志長尾家の菩提寺普済寺[長岡]で長尾為景の法要が営まれる。母青岩院の命で、喜久野が栃尾への帰還に付いて来る。男装して乗馬にて。途中、忍びに襲われるが、喜久野のおかげで命拾いした。春日山城の兄晴景との争いにけりがつくまで佐渡に身を隠すこととなりる(1548年春)。沢根城本間氏に迎えられ、佐渡では砂金、銀が採れることを知る。銀山を見つけた寺泊の商人外山茂左衛門を引見し、露天掘りの現場を見に行く。本間左馬助と茂左衛門は景虎に頼み事をする。直臣に取り立ててもらい、石見銀山の灰吹法という精錬法を教えてもらえるよう小笠原家に頼んでもらいたいというのである。

 薪能の上演: 左馬助が『屋島』の僧(ワキ)を演じる。佐渡に流されて没した順徳上皇の墓所、真野の真輪寺に詣でた時、景虎は白覆面の忍びに襲われ、代わりに本間高次が矢を受けるが、それは守札に刺さり、無傷で済んだ。

 筑前博多の豪商神屋の手代が銀の精錬の職人三人を連れ、種子島という鉄砲二挺、景虎にもたらす。世阿弥の追善興行として、河原田城の本丸にて薪能『屋島』が上演される。景虎らは招待客を装ってこの城に入り、例の忍びに景虎を襲わせたのが兄の晴景だと白状させる。シテの義経を演じていた肥後守に、左馬助を直臣とすることを認めさせた。同年暮れ、景虎は春日山城に乗り込み、兄を引退させて長尾家の家督を継いだ。それから火縄銃により、越後を統一する。