今度は吉村昭の平家物語を読んでみた。読みやすく、今まで大雑把にしか知らなかったこと、木曾義仲や義経についてなど、すべてクリアになり、旅して訪れた所(京都、奈良、屋島、熊野、下関、宮島、宇治、鎌倉など)に思いを馳せることができた。読んでよかった。メモる。

 

 平家全盛: この小説も「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」で始まる。平家は桓武天皇の末裔であるが、孫のときに皇籍を離れた。だが、平清盛の父、忠盛のとき、朝廷のために得長寿院を創建し、三十三間の堂に千一体の仏像をおさめ、鳥羽上皇によって昇殿を許された。熊野権現参拝に際して伊勢の海ですずきが船の中におどりこみ、吉兆とされたエピソード。平清盛は、右大臣、左大臣を経ずに一気に太政大臣となる。禿髪(かむろ)の子供のこと。清盛の傲岸な私生活について: 祇王と祇女、など、寵愛して捨てた白拍子のことなど[京都の嵯峨野を散歩していて祇王寺があったことを思い出す]。

 保元の乱、平治の乱を経て、源氏が衰退し、平氏のみが栄えたこと。驕り高ぶったのは清盛のみならず、若輩の孫資盛も摂政に無礼を働き、摂政の供の者に辱めを受けると、清盛は怒ったが、清盛の長男重盛が宥め、息子を糺す。それにも立腹した清盛は摂政の一行を襲わせ、側近たちの髻を切らせ、溜飲を下げる。

 

 鹿の谷: このような平家の横暴に対し、鹿の谷にある俊寛の別荘にて、後白河法皇、信西の子の静憲らが、平家を滅ぼす陰謀を練る。だが源行綱が清盛に密告してこれが明るみに出ると、関係者は捕縛され、死罪あるいは流罪に処された。この時も重盛は事態の穏便化を図る。藤原成親は備前の児島へ流される。

 

 鬼界ケ島: 清盛は、成親の子成経、俊寛、平康頼の三人を鬼界ケ島[大隅諸島の硫黄島か、喜界島か?]に流した。成経と康頼は那智の霊山に似た場所を熊野権現とみなし、都に帰れるよう参拝を繰り返した。彼らの流した千本の卒塔婆の一つが厳島神社に漂着する。康頼と親しい僧がそれを都へ持ち帰り、重盛、清盛もそれを見て哀れに思った。

 

 残された俊寛: 平家滅亡の陰謀発覚以来、後白河法皇も清盛も互いに怒り、警戒していた。そんな時、清盛の娘、建礼門院が妊娠し、痛々しい様子となり、それは清盛によって処刑された人々の魂が魔物となって取り憑いているのだとされた。こうして、鬼界ケ島の二人に赦免状が届けられる。そこに俊寛の名はなく、島に取り残される。

 

 成経都へ帰る: 成経らは肥前国の加瀬にて養生する。建礼門院は難産であったが、加持祈禱の末に皇子を産んだ。成経らは春に都へ戻り、宰相中将に昇進する。

 

 有王と俊寛: 俊寛に仕えていた童の有王は、主人が島に残されたと知り、俊寛の娘の手紙を携えて鬼界ケ島に渡る。乞食のようになっていた俊寛は、妻と息子の死を知り、食べ物をとることをやめ、二十三日後に他界した。有王は遺骨を持ち帰る。

 

 重盛死す: 1179年、京都に突風が吹き、大災害を引き起こした。平重盛は熊野権現に詣で、自分の命を縮めても平和を、と祈願したところ、都に戻ってほどなく病に倒れ、他界した。弟の宗盛が政権を握る。

 

 清盛怒る: その年の晩秋、大地震があり、占い師安倍泰親は悪い予感に落涙する。清盛が朝廷を恨んでいるという噂が広まり、天皇も関白も怯える。不満をもつ清盛は[クーデターを起こし]、関白、太政大臣以下、四十三人の公卿を都から追放する。関白は出家した。清盛の娘婿である藤原基道が関白となる。

 

 三歳の天皇: 法住寺殿にいた後白河法皇は、宗盛により鳥羽の御殿鳥羽離宮]に移され、寒々とした日々を送る。1180年、宮中では三歳になった皇太子が天皇となる。平家の圧力を受けて譲位した高倉天皇閑院殿に移る。四月に新天皇の即位式が行われたが、後白河法皇の第二皇子以仁王(高倉の宮)は、源頼政に促されて、平家打倒の令旨を出し、それは五月には伊豆に流されていた源頼朝の手にわたる。

 

 高倉の宮の謀反: 鳥羽離宮に置かれていた法皇は、八条烏丸にある美福門院の御所に移された。清盛は福原にあったが、以仁王の謀反を知ると、その逮捕と土佐国へ流すよう指令し、都に戻る。宮は女装して逃げる。宮の笛を取りに戻った長谷部信連は平家の軍を迎え撃ち、逮捕され、武勇に免じて伯耆国(鳥取)に流される。三井寺(園城寺)[大津市にあり、もとは延暦寺の別院であった]に入った以仁王のもとに源頼政らが集まる。三井寺は、延暦寺、奈良の興福寺にも支援依頼の回し文を送ったが、延暦寺は清盛に籠絡され、興福寺は頼もしい返事を寄越す。源氏の者たちは六波羅に夜討ちをかけようと考えるが、阿闍梨真海が時間をかけるべきだと反対し、夜が明けてしまう。六波羅の守りは固く、勝ち目がないので、高倉の宮は奈良へ逃げる。

 

 宇治川の橋合戦: 奈良へ向かった高倉の宮は宇治までに六度も落馬し、平等院で休息する。平家軍はそれを追うが、宇治川の橋板が外されており、多くの者が川に落ちて流される。宮の軍勢が応酬する。六十三本の矢を受けた三井寺の浄妙明秀の戦いぶり。しかし平家軍は川を渡る。馬も川に入って渡ったが、流された騎兵もあった。平家軍は平等院へと突き進む。頼政は自害し、首は宇治川に沈められた。宮は光明山へ逃れるも追いつかれて矢を受け、落馬して首を斬られた。出発しかけていた興福寺の僧兵は、宮が討ち取られたと聞き、中止する。平家軍は五百余の首を掲げて六波羅に戻る。宮の若宮は七歳であったが、出家させられた。朝敵となった三井寺は平家に攻められ、火を放たれて消滅した。

 

 とつぜんの遷都: 1180年6月、安徳天皇が福原へ行幸し、平頼盛の宿所を皇居とする。憤っていた清盛は後白河法皇を三間四方の家に閉じ込めた。新都と皇居の建設が始められたが、平家の人々は悪い夢を見、妖怪や(多人数の笑い声、大量の骸骨など)怪奇現象に悩まされた。相模からの急使が、源頼朝の動きを伝え、清盛は彼の命をとらなかったことを悔やみ、恩知らずだと罵る。

 

 文覚: 源頼朝は、1159年に父義朝が謀反(平治の乱)を起こしたことで、伊豆の蛭ケ島に流され、二十余年を過ごした。それが謀反に立ち上がることになったのは、文覚という僧の勧めによるものであった。文覚の凄まじい修行の様子; 真冬に熊野の那智滝に打たれて息絶えるも生き返ったことなど。修験者となった文覚が高尾の神護寺の修復を祈願し、法住寺殿で寄付を強要して大騒ぎを起こし、投獄されたが、大赦で出獄するも、危険人物として伊豆に流されたのである。頼朝に接近した文覚は、義朝の髑髏を首にかけて供養していたといい、平家を滅ぼすべしという後白河法皇の院宣を受けて、頼朝に渡した。

 

 富士川の戦い: 福原の都では、頼朝を討つべきだとして、平維盛平忠度麾下、三万余騎を出陣させる。関東武者の戦いぶりを耳にして二人はびびり、水鳥の羽音を源氏軍の襲来だと思い込み、われ先に退却し、遊女たちに笑われた。清盛は怒ったが、不思議なことに、平維盛、平重衡の昇格があった。

 

 清盛の愚行: 福原への遷都は不評であったので、清盛は還都することにした。誰もがわれ先にと京に向かったが、京には住む家もなくなっていた。反乱を起こした近江源氏には鎮圧軍が送られた。清盛を愚弄する奈良の興福寺に対しても重衡麾下四万の軍が送られ、興福寺も東大寺大仏殿も焼け落ちてしまった(1180年)。高倉上皇は心を痛めて病気になり、正月に薨去した。

 

 木曽義仲: 信濃にあった木曽の冠者義仲は力も強く、気性も激しかった。彼は、養父の中三兼遠に平家打倒の志を告げる。信濃じゅうの武士を従えたという義仲の動きは都にも伝わる。平家に叛いた武蔵権守入道義基とその子は平家の放った追手により捕らえられ、その首は都の大路を引きまわされた。源氏に味方するものが九州にも現われたという知らせももたらされた。

 

 清盛死す: 四国の武士も平家に叛いた。前の右大将、平宗盛が源氏を討つべく東国へ出発すると言ったが、清盛が発病したので中止となる。清盛は体が火のように熱くなる症状に苦しみ、妻の二位殿は、閻魔庁が清盛を迎えにくるという恐ろしい夢を見た。清盛は、自分の供養は、頼朝の首をはねることだと言い、死んだ。六十四歳であった。世は騒然とした。法皇は法住寺殿に戻る。焼け落ちた奈良の大仏殿の再建が始まる。三月、攻め上る源氏軍を平家軍は尾張で迎え討ち、優勢であったが、大将の知盛が病気にかかり、京へ引き返した。

 

 義仲を討て: 越後守太郎助長は、木曾義仲追討の軍を挙げたが、落馬してほどなく死んでしまった。仕方なく、弟が越後守となり、信濃へと向かうが、謀略にかかり、越後へと敗退した。一方、源頼朝と木曾義仲の仲は悪化する。義仲は身の潔白を示そうと、清水の冠者義重という息子を人質として頼朝のもとに送ったので、頼朝は鎌倉へ引き返す。義仲は越前に城を築いて陣を構えたが、平家軍に攻められ、加賀に退く。平家の大軍はこれを追撃する。しかし、義仲はこれを背後から突く作戦を立て、右筆の大夫房覚明に相談して、八幡大菩薩に願書を奉納し、吉兆を得る。

 

 倶利伽羅の戦い: 源氏方は、日が暮れるのを待ち、平家軍を倶利伽羅の谷に追い落とそうと企てていた。平家側はまったくそれに気づかず、前後から攻めてくる敵に平家軍は浮き足立ち、倶利伽羅の谷へと向かい、武士も馬も次々にそこへ落ちていく。谷は平家軍の七万余騎で埋まり、渓流は血で赤く染まった。大将軍の平維盛と通盛は命拾いして加賀の国に逃れたが、攻められ、十万余騎で出陣した平家軍は、生き残った二万騎のみが京へ戻った。髪を染めてまで応戦し、北陸に果てた斎藤実盛の哀れが涙をさそった。都には、念仏を唱え、泣き叫ぶ声がみちた。

 

 比叡山の僧徒: 都入りを前に、比叡山の僧をどうしたものかと義仲は思案し、大夫房覚明が、まわし文を書いて比叡山に送る。僧徒は協議の末、運の尽きた平家に味方する必要はないと、源氏を助けることにし、返信を送る。それを知らない平家も比叡山に願書を送ったが、同情してもそれを受け入れる僧徒はいなかった。

 

 天皇、西国へ: 七月、九州討伐に成功した肥後守が京に戻るが、木曾義仲の軍五万余騎が京に攻め上ろうとしているという知らせに六波羅は騒然となる。前の内大臣、平宗盛は、法皇も天皇も西国にお移りいただくことにすると建礼門院に告げる。法皇は密かに鞍馬へ逃れる。六歳の安徳天皇は御輿に乗り、三種の神器とともに都を後にする。摂政の藤原基道は都に残る。中将平維盛は妻子を置いていく。清盛の甥の経正は仁和寺の住職となっている親王に、門の外から別れを告げる。

 

 落ちていく平家: 清盛の弟、大納言頼盛も都に引き返す。源頼朝が頼盛に好意をいだいていたからであり、八条の女院のもとに身を隠すがそっけなくあしらわれる。維盛ら兄弟六人が一行に追いつき、宗盛をほっとさせた。肥後守貞能は都で討ち死にすると引き返し、平重盛の遺骨を高野山の金剛峯寺に納め、東国へと落ちる。天皇の一行は荒廃した福原で一夜を明かし、翌朝、福原の御所に火をつけると船に乗った。

 

 大蛇の子孫: 1183年7月24日の深夜、後白河法皇は密かに鞍馬へ、さらに比叡山へと逃げたが、四日後に都へ戻り、木曾義仲の軍勢五万が法皇を守護した。都は源氏の軍で満ちた。法皇は平家追討の命を下す。高倉上皇の第四子は都に置き去りにされていた(当時四歳)が、この皇子が後鳥羽天皇として即位する[二人の天皇が併立]。安徳天皇は宇佐八幡宮にあったが、法皇から豊後国[大分]の代官、藤原頼経に平家追討の命が下り、緒方惟義に命を実行させる。この惟義が、日向の国で崇められている高知尾神社の御神体である大蛇の息子であった。その逸話。

 

 波間にただよう天皇の舟: 惟義は軍勢を集め、平家軍を圧倒する。平家の者たちは太宰府から箱崎の津に逃れる。重盛の三男清経は絶望して入水した[能の題材となる]。長門の国司の代理は彼らを憐れみ、大きな舟百余艘を献じ、平家はそれに乗って四国へ向かい、屋島に至る。頼朝は、後白河法皇より征夷将軍への任命書を賜ることとなり、筆頭御家人、三浦義澄が鶴岡八幡宮の若宮にて、使者康定より受ける。この使者に頼朝は、木曾義仲、藤原秀衡ら追討の命令書を法皇より出すように頼む。

 

 いなか侍木曾義仲: 都に入った木曽義仲の粗野でこっけいな振る舞いは目に余るものがあったが、人々は恐れて何も言えなかった。

 

 平家のふたつの勝利: 義仲は屋島に拠した平家に軍を差し向けたが、敗退する(水島の戦い)。瀬尾の太郎兼康という平家の勇猛な侍に義仲が手こずる話。息子の小太郎を見捨てることができず、討ち死したが、義仲にあっぱれと言わしめた。そこに、十郎蔵人行家が法皇に義仲を中傷する動きがあるという報せが入り、都に取って返す。平家は播磨の地で源氏軍と戦い、またしても勝利をおさめる。

 

 乱暴な義仲軍: 義仲軍の兵は、京で盗みを働くなど、治安を悪化させたので、法皇からお咎めがあった。義仲に愚弄された鼓判官知康は、法皇に義仲追討を促し、法皇は延暦寺と三井寺の僧に義仲追討を命じ、法住寺殿にて両軍が激突する。逃れた法皇は矢を射かけられ、五条東洞院の皇居に閉じ込められ、後鳥羽天皇も矢を射かけられ、里内裏の閑院殿に閉じ込められた。

 

 法住寺の合戦: 法皇も天皇もいなくなった法住寺殿における合戦の様子。翌日、義仲は六条河原に六百三十余りの打ち首を並べた。信西の息子、宰相脩範は法皇に戦の報告をする。義仲は、前の関白藤原基房の娘を強引に妻にし、政権を握る。

 源頼朝は、無法を尽くす木曾義仲に対して、弟の範頼と義経を出陣させる。そこにやってきた宮内判官公朝が事情を話すと、鎌倉へ行くよう促され、事情を聞いた頼朝は、鼓判官知康が戦の原因だと見なす。義仲は平家に使者を送り、共に鎌倉を撃とうと持ちかけるが、相手にされなかった。法皇は六条西洞院に移る。

 

 宇治川の先陣あらそい: 1184年はわびしい正月であった。木曾義仲が平家追討のために西国へ出発しようとした時、頼朝軍が自分に向かって京に攻め上っていることを知り、これを宇治橋に迎え撃つこととなる。宇治橋、勢田橋の橋板を取り外し、増水した川を渡れなくしたが、畠山重忠[中川大志の顔がまぶたに浮かぶ]が渡って見せようとした時、梶原景季、佐々木高綱らが先陣を争って川に入り、川を渡り切ると義仲軍を蹴散らした。敵が賀茂の河原に攻め込んでいるというのに、義仲は六条高倉の女房のところに長居していた。義経は法皇のもとに馳せ参じる。

 

 木曾義仲の最期: 北へ向かう義仲に付き従うのはわずか七騎のみになっており、その中には巴という屈強な女がいた。義仲は乳兄弟の今井兼平を探し、大津の打出浜で再会すると、甲斐の一条の次郎の軍と戦って討ち死にし、今井は自害する。今井の兄、樋口次郎兼光は、義経の軍勢の児玉党の捕虜となり、斬首された。

 平家は摂津の難波潟に入り、旧都福原の西方、一の谷に城を構え、十万余騎の軍勢を立て籠らせ、平家の赤旗をひるがえらせた。

 

 中納言教盛父子の活躍: 四国の兵たちは源氏側につこうとしており、その証拠に、平家の中納言教盛、通盛、教経の父子三人を討ち取ろうとしていたが、この父子は剛勇であり、敵および裏切り者を次々に討ち取り、戦功を褒め称えられた。

 

 鵯越えの逆落とし: 源範頼と義経は、後白河法皇より、三種の神器を持ち帰るよう命じられると播磨と丹波の境、小野原に至ると、夜討ちをかけた。平家はこの負け戦の後、舟で讃岐の屋島に逃れる。平宗盛は、教経に鵯越のふもとの防衛を頼む。源氏方は一の谷の背後に迫り、弁慶が連れてきた猟師の息子の手引きにより、鵯越の頂上に至り、急斜面を馬で駆け降りようとする。三千余騎の鬨の声がこだまして十万余騎にも聞こえた。海辺の船にはあまりに多くの者が逃げ込んだので三隻が沈没する。平家側の越中の前司盛俊が、源氏方の猪俣則綱に討ち取られる。

 

 一の谷の戦い: 一の谷を守っていた大将軍、薩摩守忠度は退却するが、忠純に討ち取られる。清盛の五男、中将重衡は、梶原景季らに追いかけられ、生け捕られた。熊谷次郎直実は、美しい若武者を助けたかったが、やむなく討ち取った。腰にあった笛[祖父が鳥羽の院から授かった]から、それは平敦盛と知れた。業盛経正も討ち死に。経俊、清房、清貞も討ち死に。新中納言知盛は、息子知章が殺されると、馬を泳がせ、宗盛の舟に追いついたが、馬は返され、捕らえられ、のちに後白河法皇に献上された。

 

 小宰相の身投げ: 重盛の末子、師盛は舟が転覆したところを討たれた。通盛も然り。この一の谷の戦いでさらし首にされた平家の者は二千余人であった。通盛の後を追って入水した北の方、小宰相の話。

 

 平維盛の手紙: 中将惟盛の北の方は、夫が生け捕られたものと思ったが、それは重衡のことであった。平家の者たちの首は都を引き回されることとなり、人々は涙を流す。惟盛は病気のために参戦しなかったことがわかる。惟盛は屋島から北の方へ手紙を書く。妻子から返事を受け取った惟盛は、妻子を一眼見てから自害したいと泣く。

 

 平重衡の手紙: 平重衡は六条河原へと引き回され、身柄と引き換えに三種の神器を返すよう屋島へ使いを出すよう命じられる。母の二位殿は泣き喚くが、神器は返さぬ、法皇様が四国へおいでなさるべき、との返事を送る。

 

 千手の前: 重衡の身柄を鎌倉に送ることとなり、梶原景時が護送する。頼朝は、伊豆の狩野介宗茂に預け、千手の前という女房に世話をさせ、二人は琴と琵琶を奏で、頼朝はそれを立ち聞きした。千手の前は奈良で重衡が斬られると出家して冥福を祈る。

 

 横笛の恋: 小松の三位中将惟盛は、世をはかなんで屋島を抜け出し、高野山に行き、父重盛の家来であった時頼という僧を訪ねる。この時頼は身分の低い横笛という女を愛したが諌められて出家し、嵯峨で滝口入道となった。彼を訪ねてきた横笛を人違いだと帰した後、高野山に入り、横笛も奈良で尼になった。入道は老僧のように痩せ衰えており、惟盛はそれを羨ましく思った。

 

 平維盛の自殺: 滝口入道を訪ねた惟盛は出家しようとし、従者らも剃髪する。彼らは高野山を出て、熊野権現、新宮、那智権現に参詣参拝し、浜の宮から舟に乗り、三人とも入水した。遺書を受け取った弟の資盛たちは嘆き悲しみ、北の方は尼になった。

 

 藤戸の合戦: 木曾義仲を討った源頼朝は正四位下に昇格した。池大納言頼盛は頼朝から、母君によって命を救われたと感謝するという手紙を受け取り、鎌倉へ向かう。頼盛の家来の宗清に伊豆へ護送してもらった頼朝は宗清が同行してこなかったことを残念に思う。頼朝は法皇に、頼盛に荘園や大納言の位を与えてほしいと手紙を送る。

 平家が都を落ちてから一年が経ち、後鳥羽天皇が三種の神器がないまま即位した。

 秋も深まると範頼は平家追討の軍を率いて都を発ち、平家は備前の児島に着く。源平両軍は海を挟んで対峙する。源氏の佐々木盛綱は地元の男に馬が渡れる浅瀬があるかどうか聞き出し、海に馬を乗り入れて渡って戦い、平氏は屋島に退いた。

 都では義経が検非違使五位尉に任命された。

 

 義経の屋島攻め: 1185年正月、義経は大蔵卿を介して後白河法皇へ、平家追討の決意を述べると、摂津で船を揃え、屋島攻めを準備した。梶原景時が舟に逆櫓を立てることを提案すると、それは義経に却下される。さらに強風を押し切って出港を命じると、従ったのは二百余艘のうち五艘のみであった。彼らは追い風に乗り、三日の行程を六時間でこなし、阿波の地に上陸すると、地元の男に尋問し、状況を把握する。男が平宗盛宛の女房の手紙を持っていたので取り上げ、屋島へ向かう。敵の襲来を感じた平家側は、慌てて舟に乗る。源氏は内裏を焼く。平教経らは義経を射殺そうとするが、代わりに義経の乳兄弟、佐藤三郎兵衛が射抜かれて落命し、義経は落涙する。

 

 扇のまと: 阿波、讃岐の武士らが義経に加担したので、軍勢は三百余騎となる。そこに沖から舟が現われ、紅地に金の丸を描いた扇を立てて、女房が手招きする。これを義経の命により、馬で海に乗り入れた那須与一宗高が射抜く。その舟の上で舞った男も射抜けと命じられ、与一は首を射通す。戦いの後、三日間寝ていなかった源氏方は熟睡したが、平家側は夜討ちをせず、翌日の戦いで、どこかに退いた。義経は伊勢三郎義盛に命じて、阿波の田内を騙して降伏させ、源氏軍に加えさせた。

 

 壇ノ浦: 義経は周防の地にて範頼の軍と合流する。熊野の別当湛増は神のお告げに従い、源氏に与することとし、壇ノ浦へ向かう。三月二十四日、門司と赤間の関で合戦開始の矢合わせが行なわれる。この日、義経と梶原景時の間に一触即発の諍いが起き、わだかまりを残した。

 壇ノ浦は潮の流れが速く、両軍は競り合ったが、空中に白い旗のようなものが漂い、源氏はそれを吉兆と見る。海豚の大群が平家の舟の下を通り過ぎ、小博士の晴信はこれまでと判ずる。二位殿は安徳天皇を抱き上げ、神器を持って入水する。建礼門院も入水するが源氏方に引き上げられる。平家の侍たちは宗盛を海へ突き落とし、清宗も入水するが、源氏に生け捕られる。教経は義経に斬りかかるが、義経は別の舟に飛び移る。教経は襲いかかってきた怪力の敵(安芸の太郎兄弟)を両腕に挟み、海に飛び込んだ。

 

 平家の人々の運命: 平知盛は、乳母子の伊賀家長とともに海に沈んだ。海上には竜田川の紅葉のように平家の赤旗が浮かんでいた。三十八人の兵と、四十三人の女性が生捕りにされた。義経は、三種の神器をお返しすると報告させたが、天叢雲剣は二位殿とともに海に消えていた。安徳天皇の弟は都へ戻った。宗盛らは牛車に乗せられて市中引き回しとなり、義経の宿舎に押し込められた。平時忠は娘を義経の妻とし、見られてはまずい手紙を取り返した。宗盛の息子、義宗も斬首された。

 

 宗盛父子の処刑: 平宗盛は義経に命乞いをする。彼らに先立ち、鎌倉入りしていた梶原景時は頼朝に義経だけは敵になったと中傷する。よって、頼朝は鎌倉入りを拒まれ、弁明もさせてもらえない。宗盛父子は義経に護送されて都へ戻ることとなるも、近江の宿で平家の侍により斬首され、義経は父子の首を都に持ち帰る。それらは市中引き回しの上で、獄門の木にさらし首とされた。

 

 重衡の処刑: 平重衡は伊豆に預けられていたが、奈良の僧徒父に要求されて奈良へ送られる。途上、日野にいる北の方に会わせてもらい、木津川の河原で斬首され、その首は般若寺の大鳥居に釘で打ちつけられ、さらされた。その妻は、死骸と首をもらい受け、火葬して骨を高野山に送り、日野に墓を建て、出家した。

 

 頼朝のうたがい: 頼朝は平家の残党を流罪に処す。梶原景時[中村獅童の顔がまぶたに浮かぶ]の中傷を信じた頼朝は義経[タッキーよりも、菅田将暉のイメージそのまま]に恩賞を与えないどころか、義経を討つよう土佐坊昌俊を都に送り込む。この僧は夜討ちをかけようとしたが、義経は静御前の働きにより命拾いし、鞍馬山に逃げ込んだものの、捕らえられて斬首される。頼朝は、範頼に義経追討を命じるが、辞退したので謀反を疑われて殺され、北条時政が都へ送られ、義経は九州に逃れようとするが、それもうまくゆかず、吉野へ、さらに奈良へ、終いには奥州へと落ちていった。

 

 六代御前と文覚: 頼朝の代官として北条時政が都に入る。平家の子孫をさがしあてた者に褒美を与えるとし、多くの若者や子供を殺した。惟盛の若君、六代御前も遂に見つかり、斬首されるかと思い、乳母は高尾の文覚房にすがる。文覚は二十日の猶予を請い、鎌倉に行くが期限が切れる。鎌倉へ下向する若君と文覚はあわやというところで出会い、都へ戻されることとなり、文覚は若君を高尾の山寺に住まわせた。

 

 平家断絶: 義経に好意を抱いていた信太の三郎十郎蔵人も斬り殺されて首が頼朝のもとに送られた。頼朝は、助命した六代御前のことも気がかりで、異常なほどに疑ったので、若君は出家し、山伏姿で旅に出る。

 惟盛の弟忠房は、紀伊の湯浅宗重を頼り、その城に平家に忠誠心を抱く者ら数百騎が集まったので、熊野の別当は頼朝の命でこれを攻めた。頼朝は、平重盛は自分の恩人だから息子は名乗り出よと公表し、現われた忠房を斬り殺させた。末子の宗実は、東大寺の僧俊乗房に匿われていたが、鎌倉へ護送される途中、飲食を断ち、衰弱死する。このように頼朝は平家の末裔を悉く殺した。平知盛の子、知忠も探り当てられ、自害した。平家の侍も殺された。

 後鳥羽天皇は遊んでばかりで世が乱れたので、文覚房は守貞親王を天皇にしようと企て、頼朝の死後に謀反を起こしたが、逮捕されて隠岐島へ流された。惟盛の子、六代御前は出家していたが、召し取られ、鎌倉に送られ、斬り殺された。

 建礼門院は、奈良での侘び住まいの後、1185年に出家し、秋に大原の寂光院に移り、阿波の内侍のもとで安徳天皇の冥福を祈っていた。翌年夏、そこを後白河法皇が訪ね、涙を流した。建礼門院は1191年2月に亡くなった。

 

下関の赤間神宮

 

 あの時代にこんな錨があったのかしら? 知盛入水あせるあせるあせる