第165回直木賞受賞作ということなので、読んでみた。河鍋暁斎と、この本の主人公である娘とよ、河鍋暁翠(きょうすい)の作品を画像検索してみた。むむむ。

 以下、ネタばれになるが、自分の備忘録としてメモを残す。

 

 蛙鳴く 明治二十二年、春: 画鬼と称された河鍋暁斎の葬儀が終わったところから始まる。家族関係など。異母兄の周三郎(暁雲)との確執など。葛飾北斎の片腕であった娘の葛飾応為におとよは準えられる。「肥瘦のない鉄線描」を引くという表現がでてくる。舞台は谷根千である。暁斎の遺品は、豪商の鹿島清兵衛が買い取ってくれることとなる。暁斎には二百人からの弟子がおり、その中には建築家ジョサイア・コンドル、桑原りうの名前もあった。鹿島清兵衛は、とよときく、暁斎の娘たちを深川の別宅に引き取ると言ってくれることとなる。女たちだけでは根津の辺りは物騒だから、と。[余談だが、うずみ豆腐という料理をはじめて知った。]

 

 かざみ草 明治二十九年、冬: 清兵衛の世話で、とよ、きく、りうは深川に住んでいる。そこへ、清兵衛の妾が、梅(別名は香散見草)の鉢を返せと怒鳴り込んでくる。今度は、弟の記六がやって来て、父の隠し子、暁宴が、寺崎広業に弟子入りしたという情報をもたらす(暁宴は隠し子ではなかったことがわかる)。

 銀座に清兵衛が開いた写真館、玄鹿館の様子。清兵衛、本家より廃嫡されることが決まる。とよは、玄鹿館のために、梅の墨絵を描くことにする。

 

 老龍 明治三十九(1906)年、初夏: 湯島の南側、お茶の水のニコライ堂辺り。とよは、女子美術学校で教えつつ、留学帰りの高平常吉という男と結婚し、身籠もっていた。兄の百画会に赴く。没骨という描き方が流行っているらしく、兄の画風は古めかしいとみなされていた。洋化の波は日本画にも遠近法などの影響をもたらしていた。そこへ橋本雅邦というフェノロサの影響を受けた老画家が怒鳴り込んでくる。暁斎の画風をけなした挙句、暁雲の龍虎図を買い取る。橋本雅邦の娘婿は西郷孤月という画家であったが、暁雲の義妹のために身をもち崩し、それで怒っていたのだという。

 鹿島清兵衛が廃嫡された後、散逸してしまった河鍋暁斎の遺品のうち、観音像は浅草の伝法院にあることがわかる。

 とよの教え子の女学生たちは、菱田春草の描く美人図のようなものを好むようだ。それは、男性が威張り散らす明治の世相を反映していた。

 とよの退職に伴う荷物の搬出を、弟の記六と同じく石川光明に師事す北村直次郎という大理石彫刻家が手伝ってくれた。とよ、年末に女児を出産。
 兄の周三郎が吐血し、倒れる。胃癌のようだ。
 勧業博覧会にて: 北村直次郎が、審査への不満から自作「霞」を破壊、撤去。
 
  大正二(1913)年、春: 浅草伝法院にて、とよが集めた多彩多様な百余作の作品(コンドルから三十幅も借りたとある)による河鍋暁斎遺墨展覧会が催されている。海野美盛というもと弟子の彫金家も手伝ってくれた。その四年前、とよは離縁していた。画業に専心すべく、優しい夫と別れたのである。祭壇の左右に、周三郎の猫又図、とよの白衣観音図。来客の中には落魄した鹿島清兵衛の姿もあった。世阿弥の「砧」の舞台で笛を吹くので見に来てほしいと言う。

 暁斎の「鍾馗図」について、暁斎と狩野派のつながりについて。展覧会を片していると教え子の栗原あや子(玉葉)が現れる。

 八十五郎(真野暁亭)の息子、松司が、おとよの所に絵を習いに来るようになり、狩野派の障壁画の模写に励む。それが彼の母にばれて折檻される。[松司ももゆくゆくは日本画家となる。]

 鹿島清兵衛が笛を吹く「砧」を観る。

 

 赤い月 大正十二(1923)年、初秋: とよは日本武尊を描いている。父の絵の鑑定をしてもらいたいという古物商が来る。それは兄の作品であった。売ったのは兄の連れ合いであろうと推察し、とよは絵を自分が買い取ることにする。その売主である義姉に会いに行った時、地震が起きた。関東大震災である。とよは古物商と高輪台に逃げる[現高輪プリンスホテルの敷地辺り]。火災の少ない西側の線路を辿り、根岸に戻る。根岸は焼けていなかった。震災に乗じて朝鮮人が襲撃してくるという噂が広まる。余震もある。義姉は死んでいた。

 

 画鬼の家 大正十三年、冬: 大震災から四か月。谷中の正行院で義姉の永代供養をしてから、浅草で唯一焼け残った浅草寺へ足を伸ばす。[隅田川は、浅草付近では浅草川、宮戸川、両国付近では両国川、下流では大川と、場所によって様々な呼び名があったようだ。]御利益があるとして観音様の本尊図が売れている。そこでかつて鹿島清兵衛に落籍された名妓と再会し、清兵衛(三樹如月)が、梅若万三郎の息子の追善能、「関寺小町」で笛を吹くと聞かされる。月刊誌「中央公論」が河鍋暁斎の取材を望んでいたこともあり、懐かしくて、とよは清兵衛に会いたく思う。鎌倉まで会いに行き、その痩羸ぶりに驚く[羸痩(るいそう)という言葉は知らなかった]。三樹如月の衰弱はひどかったが、なんとか追善能を務めることはできたと聞いたが、その半月後、京都から戻ったあとに倒れたという噂も聞いた。とよは結局、雑誌の取材を受けることにした。