花田清輝もやはり安部公房の愛読書のようなので読んでみた。鳥獣戯話はつまるところ、武田信玄の父、信虎の話であり、毎日出版文化賞を受けている。小説平家は、その著者の数奇な人生についての話である。どちらかというとトリヴィアな[巻末の解説では「パンフォーカスな=広角レンズにおさめた画像全体にピントがあっている」としている。つまり枝葉部分もかなり追求してあるということ]エピソードを挙げて通説を突き崩そうとしているエッセイふうな読み物であり、それなりに楽しめたが、文章は、頭のいい知識人が、教養の乏しい一般的読者のことなど思いやることなくつらつら書いた感じであり、やや読みにくい。

 

<鳥獣戯話>

 群猿図: 「都より甲斐の国へは程遠しお急ぎあれや日も武田どの」(『犬筑波集』)は誰に対する誰の言葉か、と始まる。著者は、息子の信玄によって追放された父、信虎が信玄に向けて詠んだ句だと推察する。信玄の弟、信廉(のぶかど)は画家であったが、兄と瓜二つだったので常に影武者として兄に同行していたという[黒沢映画では、影武者は弟ではなく、盗人だったが]。また、『甲陽軍鑑』や『三河風土記』によれば、信虎の追放は、親子で打った芝居だと言えなくもないが、著者はやはり信玄によるクー・デター説と見る。

 そして、風林火山という武田の軍旗は「猿の群れの戦い方」を表している、と言う。猿の群れの戦い方の方が敵により多くのダメージを与えることを承知していた、卑怯だと言われることをおそれなかった、と。武田の戦い方がいかに猿のそれに似ているかを次々に検証していく。そういえば、猿が馬の守り神というのは、日光東照宮の厩舎の彫り物で聞いたことがあるし、武田は騎馬隊で有名であった。『武田三代軍記』によれば、信虎は白山という名の凶暴な大猿をつつじケ崎館[今は甲府の武田神社]で放し飼いにしていた。また、愛人の一人、小沢の方が武芸に励み、巴御前を気取っていた。その小沢の方が入浴中に白山が入って大騒ぎとなり、それを斬り殺した家臣を信虎が殺したために暴君とみなされ、追放されたとか・・・。

 

 狐草紙: 『醒睡笑』という17世紀の笑話集の著者に先駆けるのは無人斎道有、つまり武田信虎だと始まる。彼は、駿河に追放されてから、1558年頃には京に移り住み、質屋通いをする公家たちとつきあううちに、足利義昭の御伽衆となり、道有話で一世を風靡した。原勝郎の『日本中世史』は、三条西実隆山科言継、といった公家の目を通して戦国時代をとらえなおしていると著者は評価している。そのように窮した山科言継は『たまものまえの物がたり』(化けて鳥羽上皇の寵姫となった妖狐)のような小説類の写本を手がけ、貸して儲けていたが、今川家にもそれを持ち込み、狐を愛好する道有に意見されたとある[なんだか読んでみたくなった]。

 次は『昨日は今日の物語』という笑話集の中に、織田信長の団子好きが語られている、とあるが、無人斎道有は信長にとって「釣狐」を彷彿させるブキミな存在であった。著者は、九条稙通(たねみち: 三条西実隆の外孫)という、「飯綱の法」という狐を使った魔法の修行にはまった貧乏貴族にも言及し、信長は風変わりなこの貴族にびくびくしていたとある。[この章は狐づくしであった。]

 

 みみずく大名: 書き出しは、16世紀に渡来したイエズス会の宣教師であるが、信長の前で、ルイス・フロイスに伴って、日乗上人との宗教論争に立ち会ったポルトガル商人カルモナの話に発展する。彼は以前、腕利きの外科医であり、堺で津田宗久の首にできた腫物を摘出治癒したが、甲賀者によって信州へと拉致される。

 さて、我らが道有どの、里心がついて故郷へ向かう。甲州では信玄が既に没しており、大島城には、道有と、例のカルモナがいる。外科医として重宝されたのである。武田家は、種子島以前(『武田三代軍記』によれば1526年)に火縄銃を所有していたにもかかわらず、それを戦争に応用することなく、水股者という石つぶて集団を養成したりしていた。(余談だが、信玄が芋虫を怖がっていたことも笑える。) 道有はカルモナの弟子となり、南蛮事情を研究していたという。やがてそのカルモナには弟子ができる。織田信忠と婚約していた松姫である。彼女はカルモナから医術や洋学を学び、カルモナは彼女の飼う梟を「貴汝: アテナ」と名付けた(武田信廉についての『逍遥軒記』による)。知恵と戦と手仕事の女神にあやかったのかもしれない。[このカルモナ、検索しても出てこなかった。]

 

 これを読んだら、信虎(無人斎)にちょっと興味がわいた。この映画どうかしら?

 

<小説平家>

 冠者伝: 著者は、『平家物語』の著者は、海野幸長であることを発見した。それを間違って行長と後世に伝えた『徒然草』の著者、兼好法師を批判し、盲目の琵琶法師生仏とは西仏[海野幸長の晩年の名前]であったと論じている。

 その幸長について: 10世紀半ば、信濃に下向し、信濃屈指の豪族となった海野家に生まれ、文章博士となり進士蔵人道広と称し、後に出家して最乗坊信救となり、興福寺で得業の僧位をとり、信救得業と称し、12世紀半ばに『和漢朗詠集』の私注六巻、そして『三教指帰』の注七巻を著した。

 平家打倒を企てた以仁王が園城寺に入ったが、園城寺が興福寺に送った返書の中で「清盛入道は平家の糟糠、武家の塵芥なり」と平清盛を罵倒した信救得業は、清盛の報復をおそれ、1180年、漆を浴びて癩病人を装って東国に逃れ、木曽義仲の右筆、大夫房覚明となる。義仲没後は箱根に住まい、『箱根山縁起』『曽我物語』などを著したようである。さらに、叡山の慈円のもとに至り、円通院浄寛となるも、叡山にいた少年の親鸞とともに叡山を下り、法然の弟子となり、浄寛という名を西仏と改め、またしても東国へ赴くと、長野塩崎の康楽寺を建てて真宗を広めて入寂したというが、著者は、『平家物語』はこの人物が浄寛と名乗った時期に書き、西仏となってから自作の平曲を語って歩いたと推量している。[そうなるといつか『平家物語』も読まずばなるまい・・・]

 

 霊異記: 『吾妻鏡』には1203年、新田忠常が源頼朝の命により富士の裾野の人穴に入り、大河と奇特なるものを見て、一中一夜後に帰還したとあるが中途半端であり、これと似た『ふじの人穴の草子』にある虚偽をまじえた詳細な描写(地獄の奉行、富士浅間大菩薩と名乗る大蛇など)は、ダンテの地獄巡りを思わせるようなものさえなくはないとしている。富士の人穴は地獄の入口だという信仰があったのではないか。そして神仏の罰にあたった新田忠常は、北条時政の命で比企能員を殺したのに、加藤景廉に誅殺された。

 御伽草子の『清水の冠者』は、木曾義仲の遺児、義高と、頼朝の長女、大姫の悲話であるが、二人の年齢がおかしいという: 義高十二歳、大姫七歳くらい。筆者は、この事件の真相を解明しようと筆を尽くし、義高が富士の人穴の中に十年以上住んでいたのではと推理する。

 『蘇我物語』では、北条時政が曽我兄弟をそそのかして、工藤祐経を討った後、頼朝暗殺に赴かせたことになっているが、富士の人穴には、木曽や平家の残党が巣食っており、木曽義高の脱出劇には、この少年の父、義仲に仕えていた覚明がかんでいたに違いない、名僧に化けて鎌倉の連中を手玉に取っていたのだとする。だが、箱根権現は皮肉なことに、源氏にも北条氏にも信奉された。覚明は、箱根権現の草創を著した歴史的縁起筥根山縁起并序はこねさんのえんぎならびにじょを書いている。

 

 大秘事: 『平家物語』を語る琵琶法師たちの間に、台本の一部を秘す大小の秘事が生まれた。剣の巻のような国家秘密にかかわる部分はしかたない。だが、入水する安徳天皇の髪型のくだりは、変装か替え玉か、どう解釈すべきか不可解だが、国家秘密に関わると言える。ほんものの安徳天皇がどこかに脱出したかもしれないという説があったことは、硫黄島など、全国二十数カ所に安徳天皇陵があることが物語っている[下関の赤間神宮には行ったなあ]。『増鏡』によれば、三種の神器なしに即位した後鳥羽天皇は宝剣を探したり、御所で作らせたりしたようだが。著者は、瀬戸内海のある島(生口島)から来た自称安徳天皇の皇子という人物が一振りの剣を持っていたと『古今著聞集』の中にあると言う。九条兼実の日記『玉葉』からの情報(塩飽諸島から生口島に移った可能性もあり)も記している。また安徳天皇に懸賞金がかかったので、密告が相次ぎ、無辜の少年たちが多々殺された、とも。『源平盛衰記』の「老松若松剣を尋ぬる事」にも言及している。

 以上が起承転結の起だとすると、承は、瀬戸内海の生口島が舞台となる。天皇の乳母であった老松と若松の母娘は(もしかしたら厳島神社の神主の指示で、呪術師か巫女のふりをして)そこに安徳天皇を匿っていたが、安徳天皇は十年後におたふく風邪で死んだ。天皇の乳姉妹であった若松の産んだ男女の双子が、安徳天皇の落とし胤だとして、剣振丸と亀と名付けられ、成長する。

 転と結: 剣振丸は奈良の大安寺に入れられ、そこの渡来人がたくさんいるエキゾチックな空気の中で、唐人や天竺人から手品や軽業などを仕込まれ、傀儡子のようになる。一方、亀は、平資盛の息子、小殿(ことの)の手引きで、開かずの箱(三種の神器が収められている?)を持ち出し、行方を断つ。その双子が、加茂の祭りで再会する。亀は亀菊御前という白拍子となり、後鳥羽院の乳母(藤原兼子: 今のNHK大河にも出てくる)の手引きで、伊賀の局という後鳥羽院の愛妾となっていた。後鳥羽院に差し出した例の剣は偽物と断じられていた。外術(マジック)で名を馳せた剣振丸は、親王を自称したために断罪される。これらの話は『古今著聞集』に準じている。

 

 御舎利: 1216年東寺の宝蔵から三千三百粒の舎利が盗まれた。そもそも『今昔物語』などの記述から推測するに、舎利はダイヤモンドのような物質らしく、日本にもたらされたのは6086粒とのこと。その半分以上が東寺にあったことになる。それを保有することは罪障消滅、つまり免罪符になると考えられていたようだ。また、天変地異があった時にも御舎利に祈祷した。ともあれ、『吾妻鏡』によれば、ほどなく盗人の大夫房は、後鳥羽院の寵臣、検非違使の藤原秀能(ひでよし/ひでとう: 後宮の人気者の美男歌人)によって逮捕され、秀能には褒美として十粒が与えられ、東寺に千粒が返され、あとは後鳥羽院と伊賀の局が手元に置いた。

 これに類似した事件がその25年ほど前(1191年)に室生寺で起きていた。盗人は、東大寺大仏殿再建の任にあった重源(!!??)。五輪の塔のどこに仏舎利があるかを承知していたのだ。だが重源は大仏殿の再建にとって重要人物なので、後白河院は不問に付した。なんとなれば、この事件の黒幕は、舎利の欲しかった後白河院本人だったからである(!?)。これは九条兼実の日記『玉葉』にある。筆者は、この二つの事件には、類似のみならず、対応しているものがあるとしている。

 ところで、東寺の舎利盗難事件で逮捕された大夫房覚明は、浄寛として『平家物語』を書きつつあった人物である。著者はいまいち釈然としないものを感じつつ、文覚上人のことを思う。東寺を修繕した文覚上人[NHKの大河では猿之助が怪僧を演じた]を後鳥羽院が島流しにして以来、両者の間には冷ややかなものがあり、後鳥羽院が仕組んだものではないか、と。だがその証拠はない。

 最後に、ブッダの本物の舎利がインドで見つかり、その一部が名古屋の覚王山日奉寺にある、と結んでいる。

 

 聖人絵: この聖人とは、親鸞聖人のことである。『平家物語』の作者がまたここにも登場する。長野の康楽寺の開基として。なんとなれば、『親鸞伝絵』の絵巻部分を手がけたのが、この寺に居した浄賀法眼であり、開基(寺の縁起によれば「木曽大夫房覚明円通院浄寛西仏坊」)の孫(?)のようなのである。『親鸞伝絵』は、親鸞聖人の曾孫覚如上人が、西仏坊遺物の日記により、事績を記し、浄賀に絵を描かせたことがわかっている。この二人の曽祖父たちも、叡山で出会い、この地の角間の湯に浸かったようである[なんだか行ってみたくなった]。

 

 この文筆家の『室町小話集』、そのうちに暇があったら読んでみよう。