先日、相撲について、通訳ガイド向けの研修があったのでメモる。

 

 1. 相撲の歴史: 相撲の起源は、『日本書紀』(720年)の中にある、野見宿禰(のみのすくね)・当麻蹶速(とうまのけはや)の天覧勝負の伝説があげられる。伝説上、垂仁天皇の御代にさかのぼる。

 墨田区には、野見宿禰神社がある[すみだ北斎美術館の近く]。

 2. 古墳時代の遺跡から力士の埴輪が出土している。和歌山のほかに島根からも。

 相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷行事「相撲節会(すまひのせちえ)」として300年続くことなる。

 鎌倉時代から戦国時代にかけては、武士の戦闘訓練として盛んに相撲が行われ、寺社仏閣において募金のための勧進相撲が行われた。

 3. 江戸時代には職業としての相撲取りが現われ、江戸中期には、江戸、京、大坂において、定期的に興行相撲が行われ、一般庶民の娯楽とされるようになった。

 4. 明治42年(1909年)、回向院に国技館が建設され(ドーム屋根をもつ洋風建築)、国技とみなされるようになった。戦後、国技館は蔵前に移った。

 

 両国の国技館には枡席と椅子席があり、天井近くに32枚の優勝額が飾られている。毎年初場所に2枚、額は新しいものと順に入れ替える。額の大きさは縦3.17m×横2.265m。

 一杯500円のちゃんこが食べられる。

 2時過ぎから、堂々と正面入り口より、力士たちの場所入りが見られる。

 支度部屋と風呂が東西にあり、関取は明荷(あけに)という座布団とまわし類を入れた箱を置き、床山さんに髷(大銀杏は関取[幕内、十両の力士]のみ)を結ってもらい、準備する。力士用の大きなトイレもある。千秋楽の表彰式前には、優勝力士が東の支度部屋一番奥で式を待つ。横綱は一番奥を占める。

 番付 classifica は場所の二週間前に発表される。番付表に書かれている名前の数は約1000名だが、力士の数は650名くらい、あとは行事、呼出なども書かれている。相撲部屋は今、43あり、新弟子は毎年60〜80名が入ってくる。

 場所前に呼出さんが土俵を築く: 40tの粘土質の土を固める。うち新土(荒木田という)は8t。土俵は、一辺6.7m(22)の正方形に土を盛り、その中央に直径4.55m(15尺)の円が勝負俵(計16俵)で作られ、その円の東西南北4か所に徳俵(計4俵)と呼ばれる、俵1つ分の出っ張りが設けられている。土俵の上には、神明造りの屋根、水引幕、四色のふさが吊るされている。

 本場所初日の前日に土俵祭が行なわれ、鎮めもの(するめ、昆布、勝栗、かやの実、米、塩など6品目)を土俵に埋め、五穀豊穣、国家安全を祈願する。

 櫓太鼓は、今では、寄せ太鼓と跳ね太鼓のみ鳴らされている。跳ね太鼓は千秋楽には鳴らされない。櫓には、神を招く出幣というものがつけられた竿が突き出している。

 早朝の取り組みは前相撲: 新序出世イスラム教徒披露。

 土俵入りは16時頃より、十両以上の関取が化粧まわしをつけて行なう。横綱土俵入りは、14〜15kgの化粧まわしをつけて行なう。雲龍型と不知火型がある。

 取組と作法: 四股名が呼ばれたら土俵に上がり、外向きで柏手を打ち、四股を踏む。力水で口をすすぎ、力紙で拭き取り、塩を撒き(1日に40〜45kg、一場所で約600kgの塩が撒かれる)、徳俵の内側で蹲踞し、塵手水を切り、再び塩をとり、土俵の仕切り線を挟んで四股を踏み、立ち合いの姿勢を取る。取組の制限時間まで繰り返す。幕内 4分以内 · 十両 3分以内 · 幕下以下 2分以内とされている。

 塵手水(ちりちょうず): 蹲踞の姿勢で揉み手をしてから拍手を打ち、両手を広げた後、掌をかえす。 浄めの水(手水)も何もないときに、手で空気を揉むようにして清める所作。取組前、互いに手に寸鉄帯びずを確認しあったことが、その起源。 

 力士の収入は、月給と場所ごとの持ち給金の二本立てである。横綱で月に280万円くらい。

 取組は4分。懸賞金を受ける時は手刀を切る(左、右、中)。懸賞金は一口7万円。うち1万円が手数料、6万円が勝ち力士のものとなる。

 

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