カルロ・ゴルドーニについては、大まかな知識しかない。大崎さやのさんがこの本を出版されたので、読んでみることにした。メモる。

 

 序論: ゴルドーニ(1707~1793)は、ヴェネツィア出身の18世紀の劇作家で、特に喜劇、喜歌劇を遺した。それらは今でも上演されている。演劇の改革者でもあった。

 当時のイタリアには、文人が古典を題材とした悲劇を主に書いたりしてサロンで楽しむものと、庶民向けの旅芸人などによる台本のない仮面即興喜劇: コンメディア・デッラルテがあったが、前者は高尚すぎ、後者は低俗すぎた。オペラは劇場における商業演劇としての地位を確立していたのであるが。

 これまで、ゴルドーニの演劇改革については、ベネデット・クローチェが、モリエールに劣るとしたように、あまり高い評価を得ていなかった。

 ゴルドーニはヴェネツィア共和国内のブルジョワ階級(政治参加のできないが知識人の市民階級)に属していた。ゴルドーニは、権力が一部の貴族のみに握られていた当時のヴェネツィアにおけるブルジョワ階級の代弁者のように捉えられることが主流であったが、昨今では、庶民を主人公とする喜劇の「道徳面の改革」と捉える向きが現れてきた。本書では、ヨーロッパ、特にフランスの啓蒙思想との関わりを論じていく。

 

 第1章 イタリア演劇改革の先駆者たち: 先ず、18世紀初頭に、フランスからの刺激を受け、イタリアの文人たちにより文学刷新運動が起き、アリストテレスの『詩学』の法則など、演劇理論についての著作が書かれるようになった。

 ゴルドーニに先立ち、演劇改革を試みた人物が二人いた。ヴェローナの文人貴族、シピオーネ・マッフェーイと、コンメディア・デッラルテの俳優リッコボーニである。

 前者の経歴について: パルマのイエズス会のコレージョで学んだ/ ローマのアルカディア・アカデミーに属した/ 啓蒙思想の影響を受けた/ 古い写本解読のためにギリシア・ヘブライ古文書学を学ぶ/ リッコボーニと知り合う/ 経済・科学を研究する/ パドヴァ大学・トリノ大学の教育制度についての意見書を執筆/ ヨーロッパ各地を旅行/ 石碑を収集して美術館を設立など[私は、ほぼ同時代のナポリ王国における啓蒙貴族、ライモンド・ディ・サングロを思い浮かべた]。啓蒙主義の理想を演劇改革に注ぎ、悲劇『メロペー』をつくり、成功を収める。喜劇『社交辞令』、オペラ『忠実なニンフ』の上演も行ない、『古今の演劇について』という理論書も出版した。

 ルイージ・リッコボーニは、即興仮面劇コンメディア・デッラルテの役者の息子であった。やはりイエズス会士に学ぶも、家業の演劇に進み、二十歳の頃から古典のギリシア・ローマ劇、近代演劇を学び、マッフェーイと出会い、古今の悲劇を演じるようになるが、ヴェネツィアでアリオストの『学生』を上演して失敗した後、マッフェーイとの協力関係は破綻し、フランスに招かれてパリで活動するようになる。役者業を引退してパルマに戻り、演劇に関する執筆活動を行なった。

 この二人が改革しようとした当時、悲劇の上演は減り、音楽劇オペラや、無知な役者の演じる滑稽で淫らな即興仮面劇が聴衆の心を奪っていた。マッフェーイと出会って演劇改革に手を染め始めたリッコボーニがなぜフランスに行ってしまったのか?

→著者は、この二人は当時のイタリア演劇について一致する問題意識をもっており、堕落したイタリア演劇の名誉挽回と再興を目指していたとする。また、彼らは、演劇がキリスト教の教義に反しているという攻撃にも抵抗し、俳優業を擁護している。頽廃した演劇が人々の良識や風紀に悪影響を与えるということは、その影響力を良い方向に生かすことができる、特に文字の読めない人にも知識を与えるメディアでありうる(マッフェーイのみの考え)とも言っている。マッフェーイは韻文にこだわり、古典作品の上演を推進するも、リッコボーニは、規則に縛られ過ぎた悲劇は観客に受け入れられないとした。二人の決裂の原因は、立場の違いにあったようだ。

 格調高い劇と滑稽劇の要素をともに持つ中庸な劇の出現にはゴルドーニを待たねばならなかった。 

 

 第2章 ゴルドーニの演劇改革の理念: 彼の『喜劇集』の序文、および『回想録』によれば、 弁護士であったゴルドーニは1733年、婚礼のための借金から逃れようとミラノへ出るが、創作オペラ『アマラッスンタ』(東ゴート王国のテオドリック大王の娘)を世に問うためでもあった。途上、ヴィチェンツァのトリッシノ伯爵のもとに寄寓し、演劇改革の必要を論じ、喜劇『賭博師』を献ずる。彼の『アマラッスンタ』は評価されず、喜劇の分野に進む方がよいだろうと言われた。ヴェローナではマッフェーイを訪ねたが会えず。

 ゴルドーニの『回想録』は、晩年、ヴェルサイユの宮廷におけるイタリア語教師の職を辞してパリに戻ってから執筆された。三部構成で、一部は、生い立ち、そしてピサからヴェネツィアに戻るまで、二部は1748年からのヴェネツィアにおける円熟期、三部はパリのイタリア座の座付き作家になって以降、である。

 ヴェローナに次いで、ゴルドーニはブレーシャの文人たちと会い、『アマラッスンタ』に高い評価を得るが、ミラノの劇団の踊り子たちに退屈がられてしまい、落胆する。音楽劇の規則を欠いていたからであると知り、二度と音楽劇を書かないことにする。トリッシノ伯爵の助言を思い出し、喜劇にトライすることとし、俳優たちとの交友を深めて喜劇のしきたりを学び、俳優一人一人の個性に合う役を考案して劇を作らねばならないことを悟る。先ずは、幕間劇インテルメッゾを書き始めた。

 その後、簡素な言葉で悲喜劇『ベリサリウス』を書き[ゴルドーニはテーマとして東ゴート王国の時代を気に入っていたのかしら?]、大成功を収めた。さらにオペラ『グリゼルダ』の成功により、ヴェネツィアのサン・サムエーレ劇場の座付き作家となり、サン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場の監督にも就任する。さらに、サン・サムエーレ劇場のアントニオ・サッキ一座のために『シチリア王エンリーコ』(1738年初演: [あら、フェデリーコ二世の孫の話かしら])を書く。次いで、役者ゴリネッティのために『通人モモロ』を書く。台詞と即興を交えたこの劇は漸次的改革の一環であった。次の『破産した商人』は、喜劇の道徳面での改革と言えた。『賢いニンフ』という声楽劇、『粋な女』という性格喜劇に取り組んだ(1743年)。この年、詐欺にあって借金取りから逃れるべくピサで弁護士として働くが、俳優サッコの依頼で『二人の主人を一度にもつと』を書いて演劇界に引き戻されてゆき、『ヴェネツィアの双子』『思慮深い男』を物して、ヴェネツィアに戻る[中にはyoutubeで見られるものもある]。戻ってから書いた『抜け目のない未亡人』も成功する。『高潔な娘』は教育的で真面目な喜劇であったが、非難する人がでたが、怯まず、その続編をヴェネツィア方言で『良き妻』を書いた。イエズス会士の劇作家ピエトロ・キアーリというライヴァルも現れた。

 1750年にはベッティネッリ版のゴルドーニの喜劇集が出版され、作家となった。その中で彼は自身の才能を強調し、それは自然の賜物だとしている。「何が人の心を動かすか」を知るには、観客の観察と分析によった: 創作上最も役立ったのは、古代の喜劇作品を読むことよりも、「世間」と「劇場」、の二つ、つまり観客を見て分析することであった、と。

 このような劇場改革の理念は、1750年に発表された『劇場』という劇中劇の構造をもつ作品の中でも語られている[ぜんぜん関係ないが、これは私に、100年前に制作されたベルニーニによる「コルナーロ家の礼拝堂」の劇中劇を想起させた]。彼は、劇に自然さを追求しつつも、道徳性を重視し、下品にならないよう台詞の言葉に注意せねばならないと考えていた。それ以後も、『モリエール』『テレンティウス』『スミルナの興行師』などで演劇について論じている。

 

 第3章 サンタンジェロ劇場時代(1748—1753年)のゴルドーニ演劇: ピサに滞在していたゴルドーニは、『伊達男トニン』の執筆を依頼してきたダルベスの紹介で、サンタンジェロ劇場の座長メーデバックと知り合い、座付き作家となる契約を結んだ。『浮気者アントーニオ』は失敗したが、『思慮深い男』で成功を収める。『抜け目のない未亡人』では、ピエトロ・キアーリと論争になった[前章にも言及]。キアーリによる『未亡人学校』は、ゴルドーニの劇のコピーで、原作を批判する内容であったのが発端である[様々なキアーリの批判はどうでもよさそうなことばかり]。ゴルドーニは、何を言われても無関心。それでよい。[今日、キアーリの作品はほとんど上演されていないという事実が結論を物語っている。]

 『骨董狂いの家族』では嫁と姑が和解せずに終わる点が新しい。『意地悪な女たち』は社会風刺劇で、人気が出なかった。おそらく劇中に婦人たちが自分達を見てしまったから、と著者は言う。そして、この二作以降、ゴルドーニの改革の目指すところがほかに移ったとも指摘している。

 また、劇作家カルロ・ゴッツィは自作の『「巡礼旅籠」での「劇場」』の中でゴルドーニの『劇場』に書かれている演劇改革を堕落だと批判した。勉強不足だとも攻撃している。批判内容の詳細についてはメモを省く。トリノで初演された『モリエール』は、ゴルドーニとしては珍しく韻文で書かれた古典劇に近い作品であった。

 ゴルドーニを拙いとか無能だなどと評し、言語や言葉使いのまずさ、道徳的な問題を指摘した文芸評論家ジュゼッペ・バレッティの批評は、親交のあったゴッツィ兄弟の影響であろうと著者は述べている[貴族は自分たちが、ゴルドーニの劇で揶揄され、コケにされて憤ったのではあるまいか?]。

 また、ハンガリーの研究者ニエルジェスによれば、催涙喜劇[お涙頂戴喜劇]を初めてイタリアに導入したのはゴルドーニであり、その第一作は『高潔な娘』であったが、伝統的喜劇ではなかったために受け入れられなかったようだ。著者はこれをセンチメンタルコメディーとし、身分違いの結婚を主題とする『パメラ』や『真実の友』のような道徳劇に引き継がれていくことになるとしている。

 ところで、ゴルドーニがヴォルテールと知己があり、書簡のやりとりがあったこと、ヴォルテールがゴルドーニの喜劇を「ゴート族から解放されたイタリア」と称えたことがゴルドーニの出版物『喜劇集』に書かれている。この二人は互いの作品を模倣しあっていた、ともある。なお、バレッティは、ヴォルテールのイタリア語が貧弱なことを挙げて、ヴォルテールのゴルドーニ評価を批判し、その結果うまれた喜劇『珈琲店』も批判している。著者は、バレッティが、ゴルドーニのライヴァルである友人カルロ・ゴッツィに肩入れしたのではないか、としている。なお、ヴォルテールやフランスにゴルドーニを知らしめたのは戯曲家アルベルガーティ・カパチェッリであった。ヴォルテールは、ゴルドーニの『珈琲店』を模倣して『スコットランドの女』という喜劇を書き、自画自賛している。

 『百科全書』の編集者にして作家のディドロもやはりゴルドーニの『真実の友』に着想を得て『私生児』(1757年)を書き、スキャンダルになったが、内容も主題も異なり、設定が似ているだけで、滑稽さを欠いているので喜劇とは言えない。ディドロはこれを人間の徳と義務を取り上げる「真面目な喜劇」と定義し、ゴルドーニの喜劇をファルスとしつつも、優れていると評価している。ともあれ、ゴルドーニがフランスの戯曲に、ひいてはヨーロッパ演劇史にも影響を与えたことは確かである。

 

 第4章 サン・ルーカ劇場時代(1753—1762年): 1753年、ゴルドーニはヴェネツィアで最も古くて大きなサン・ルーカ劇場の座付き作家となった。契約では年に八作の喜劇を書くことになっていた。この劇場は、演劇改革の先駆者リッコボーニの実験場でもあった。その前に契約していたサンタンジェロ劇場とは支払いの件で不満が嵩じていたし、戯曲の出版権でももめていた。

 その第一作『嫉妬深い守銭奴』、続く『頭の弱い女』は失敗する。原因は、新しい劇場の俳優たちが台詞を覚えて演じるという新しい形式に慣れていないこと、劇場が大きいことが不向きであったことによるものであった。そこで、よりスケールの大きな物語『ペルシアの花嫁』は大成功を収めた。(一方で、彼の去ったサンタンジェロ劇場は宿敵のキアーリを雇っていた。) だが、『イギリスの哲学者』は文人の間で論争の種となる[バッフォという詩人からの批判、トデリーニなど様々な人の擁護については省略]。これは古典劇の三一致の法則には則っり、韻文のマルテッリアーノ詩型の五幕形式で書かれていた。ライヴァルのキアーリは、これをもじって『ヴェネツィアの哲学者』を書き、成功を収め、論争に拍車をかけた。

 一方、女優のキャスティングをめぐり、一座とゴルドーニとの間には確執が生まれていた。1754年には持病の心気症にかかり、相次いで身内の不幸にも見舞われた。それでも『女中たち』『家の女たち』『小さな広場』といった傑作をつくり、八行詩『格子越しのイソップ』を発表し、喜劇『トルクァート・タッソ』などでトスカーナ語主義者を揶揄した。カルロ・ゴッツィが『風刺詩』を出版してゴルドーニとキアーリの両名を攻撃したことで、この二人は和解することとなる。また、カルロの兄ガスパロ・ゴッツィは情報誌や新聞でゴルドーニの『ルステギ』[旧弊な男ども]や『新しい家』の写実性、人物描写の巧みさを評価した。ゴルドーニ研究者オルトラーニも『ルステギ』をゴルドーニの戯曲の頂点としている。このようなゴルドーニのリアリズムは、ヴォルテールによっても称賛されている。著者はここに至り、ゴルドーニの演劇改革は理想に近づいたと言えよう、としている。渡仏前、最後の作品は『別荘三部作』であり、著者はこれを修士論文にしているとのことだ。

 ゴルドーニの演劇改革は閉塞状態にあったイタリア演劇を救った。高尚だが不自然な悲劇風劇でもなく、低俗な滑稽劇でもなく、その中庸を狙ったものであった。リアリズムを重視した。道徳的なものを狙った劇は今日ではほとんど上演されておらず、自然な笑いを生み出す『珈琲店』や『ルステギ』が好まれている。

 1761年、ゴルドーニはパリのイタリア座からの誘いを受けてフランスへ赴く。[1764年、ヴェルサイユ宮にて王女たちのイタリア語教師となり]、革命が起きてパリに戻り、最後にはフランス語で自伝『ゴルドーニ氏の回想録-わが生活と演劇』を出版し(1787年)、1793年、生涯を終えた。

 

 大崎さんの研究に敬意を表する。日本ではほとんど無名だが実に重要なこの戯曲家を扱うのは大儀であったことと推察する。彼の戯曲は二百以上もあるという。それに手をつけた勇気と忍耐力は人並みはずれている。さすが東大の平川祐弘先生のお弟子さん、脳みそのできが格別なのだろう。

 ゴルドーニの戯曲を読みたいという気分にはなれないが、平川祐弘先生の訳されたという『抜け目のない女たち』『珈琲店』など、せっかくだから読んでみたい気もする。ピランデッロは私も好きで、今も折を見てある長編を読んでいるが、戯曲はさほど読んでいない。なぜか戯曲は苦手なのだ。安部公房のにも食指が伸びない。