最近、戦国時代の小説や大阪城についての本などを立て続けに読んだので、石山本願寺のこともイメージしてみたくなった。この本には、どちらかというと、顕如上人のことよりも、織田信長のことがたくさん書かれている。それにしても読みづらい。織田信長の残虐さ以外、個々の武将たちのキャラクターがほとんど描かれていない。でもまあ、浄土真宗にしても比叡山延暦寺にしても、この戦国時代に、宗教勢力がものすごく蔓延していた様子がわかる。雑賀衆、根来衆といった鉄砲傭兵集団、織田信長の大砲装備の装甲艦を建造してしまう鳥羽の海賊大名、イエズス会の宣教師をも仰天させた信長の鉄船が六百隻の毛利艦隊を退けた大坂湾海戦、日本の戦国時代はとんでもない時代だと実感できる。

 

 石山: 浄土真宗石山本願寺があった場所について: 現在の大阪城の南側外堀の内側、桜門の南西側にある修道館(武道全般の道場)の西側にあったとのこと。1496年、蓮如上人が堂宇を建てたことに始まる。浄土真宗の開祖は親鸞上人である。京都の東山、清水寺の裾野に広い親鸞上人を祀る大谷祖廟がある[この中を突っ切って清水寺に行ったことがあったなあ]。

 浄土真宗は自由平等思想に基づいた教義で、穢れがあるとみなされてした女性も、穢多非人も、殺生をする武士も、金儲けをする商人も、分け隔てなく、念仏を唱えれば極楽往生できるとしたので、民衆の間に急速に普及した。

 顕如上人はその本願寺の第十一代で、1543年に石山本願寺で生まれた。親鸞上人は性欲の煩悩だって否定しなかったので、この宗派の僧侶は妻帯だって許されていたのだ。彼の母は武田信玄の義妹であり、本願寺は甲斐や越前と姻戚関係にあった。

 一向一揆を行なった本願寺の衆徒の威力は将軍や有力大名を凌ぐほどであった。 

 天下取りを目指す織田信長にとってこの勢力を平定することは必須であった。

 織田信長は、この本願寺に、高額な矢銭を納めさせたり、大坂の石山本願寺を明け渡せと命じたりする。さすがにこれには承服しかねて、本願寺は応戦の構えに入る。鉄砲集団の雑賀衆(さいかしゅう)ら、傭兵たちが寺内町に陣取った。

 この1570年、顕如上人の長男は、新門主となり、法名を教如とした。

 織田信長が、将軍足利義昭のために二条城を落成させ、同年四月、祝賀会を催した。だが足利義昭と織田信長の間には信頼関係はなかった。将軍は、その後見人となった信長によって権力を規制されており、それを不満に思い、朝倉や武田などに密書を送ったりしていた。

 同月、信長は突然京都から若狭の金ケ崎城へと進撃する。この時、義弟の浅井長政が信長との盟約に背き、織田軍の背後を突く。だが、信長も朝倉を攻めないという条件を反故にしていたのだ。木下藤吉郎の殿によって撤退したことは有名である。

 そして翌々月の六月、小谷城を攻める。浅井朝倉に勝つと、八月の終わり頃には大阪の天王寺に本陣を置く。九月になり、激戦が展開する。本願寺側には雑賀衆ら鉄砲隊の傭兵もいたし、野良着の門徒たちも凄まじかった。織田勢は惨憺たる敗北を喫し、退却した。その中で、槍の又左衛門[前田利家]が豪快であった。信長はやむなく将軍に頼んで、朝廷に本願寺に停戦を命じる勅書を出してもらったが、浅井朝倉勢が京都に進撃しているとの報に、大阪下向を取りやめた。石山本願寺は、仏法擁護の城なれば、退却する敵を追い討ちにはしない、と顕如上人は言った。

 織田軍は、南下した浅井朝倉を迎撃しようと急いだので、浅井朝倉勢は比叡山中に後退した。信長は比叡の僧衆たちに浅井朝倉を匿わぬよう命じたが、聞き入れられなかったので、比叡山の堂宇をことごとく焼き払うと豪語した。だが事態は膠着したまま冬を迎える。この年、宇佐山城の攻防で信長は弟、信治を亡くした。

 一方、本願寺の顕如は諸国の門徒へ檄を飛ばすべく御直書を発した。伊勢長島願證寺は寺領十八万石を擁す一大拠点であったが、それに応えて、小木江城を攻め、織田信興を敗死させた。弟の訃報を信長は近江宇佐山城で聞く。信長は、信治、信興の弟二人を失い、本願寺と比叡山を憎みつつも、将軍から禁裏に働きかけさせ、和睦交渉を模索する。顕如は和議を受け入れる。一方、晩秋、坂井政尚に堅田の陣を襲わせ、朝倉らを脅かした。これが効いて朝倉らは講和に応じ、比叡山を下りて帰国していった。

 翌1571年、信長は近江一帯の本願寺に物資を運ばせぬよう北陸との通行を禁じ、石山本願寺への参詣を禁じて参詣者を関所で摘発投獄した。二月には、浅井の家臣、磯野員昌の拠る江州佐和山城を攻めて取り、丹波長秀に与える。

 そして今度は、一向一揆の一大拠点、長島征伐に乗り出す。五月に五万の兵を率い、三方に分かれて攻めた。だが、願証寺は五万の兵力を動員し、織田軍を退けた。本願寺の威勢は上がり、大坂、北近江、加賀、能登、越中の門徒は奮い立ち、四国の長宗我部元親、中国の毛利輝元、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、甲斐の武田信玄ら、反信長戦線は結束を固めた。

 

 愛山護法: 信長は、長島征伐に失敗した後、三万の兵を率いて近江の一向一揆鎮圧に向かう。そして、大坂へ侵攻するとの噂を流しつつ、比叡山に攻め上るつもりである。仏罰を畏れ、叡山攻めに反対する宿老もいたが、合理主義者の信長の決意は翻らず、八月末から九月にかけて掃討作戦が繰り広げられた。そして九月十二日、比叡山焼き討ちを決行する。堕落した叡山の僧侶に対する憎しみは激しく、僧侶のみならず、山門にいた美童、美女もすべて惨殺された。叡山の焼ける様は、大坂からも見えたとしている。

 翌年、1572年七月には北近江と小谷城に向けて出陣し、城下を焼き尽くす。そのために大砲(長さ九尺=2.7m)を装備した水軍を仕立て、小谷城の包囲に臨む。朝倉勢が救援に駆けつけたが、戦意は萎えた。そして九月半ば、信玄の西進に備え、攻囲を木下藤吉郎に任せて岐阜に戻った。十月、信玄の大軍は遠江に入り、二俣城を水攻めにして家康を脅かす。信玄の家臣、秋山虎繁の調略により美濃の岩村城も陥落する。信玄は、浜松城へ向かうと見せかけた後、三方ヶ原[現浜松の北側]を南西へと横断してゆき、家康を誘き出す。徳川軍は圧倒され、浜松城に逃げ帰り、信玄は戦勝を言いふらしつつ西進を続けたが発病し、1573年四月に甲府へ戻る途上他界する。

 京都では足利義昭が信長討伐の意図を明らかにし、挙兵の準備を進め、密書を乱発していたが、信長は表面的には義昭と戦わず、和平を求める態度を示した。だが義昭が突っぱねたので、先ず光浄院暹慶が伊賀衆・甲賀衆とともに拠る今堅田・石山を攻撃し、半日で落とす。それでも義昭は講和を拒む。信玄の病気の噂が広まる。

 四月、信長は義昭への見せしめとして、傲慢で裕福な上京を焼くこととする。上京は信長に献金するも頓着してもらえず、残らず灰燼に帰した。同月、信玄が死し、反信長陣営に打撃が走る。加賀、越前、石山の浄土宗衆徒も然り。

 信長は、丹羽長秀に命じて巨大な軍艦を建造させ、七月に浸水させる。京都では将軍が、宇治の槙島城で信長追討の軍を挙げていた。信長は、その軍艦で琵琶湖を渡り、京に攻め上り、二条城を、さらに槙島城を落とす。息子を人質として助命を乞うた将軍を殺さずに、信長は追放した。

 八月には、浅井・朝倉を攻めるために出陣。朝倉は敗れて六坊で自害する。義景の娘は本願寺の教如の裏方になる予定であったので、娘二人を石山本山に逃れさせようとしており、それを信長は追わなかった。小谷城に籠る浅井も自害した。

 九月、信長は、浄土宗の一大拠点、伊勢長島に向かう。数日後、西別所(桑名)の一揆勢は女子供に至るまですべて虐殺する。そして願証寺を包囲した。だが、一揆勢は織田勢を敗走させる。信長は一向一揆に対する作戦を練り直さねばならなかった。

 1574年の正月、岐阜城における祝賀の宴席の後、信長は自分の馬廻衆に義景と浅井父子の首三つを漆と金泥で塗り固めたものを披露した。越前では一向一揆が猛威を振るう。敦賀の辺りに羽柴秀吉らを配備したが、先ずは長島を、と息巻いた。

 

 一揆殉教: 二月、明知城が武田勝頼の軍に攻められ、織田の援軍は間に合わずに降伏する。一方、越前の一向一揆は威勢を上げ、加賀のような「百姓の持ちたる国」を目指し、加賀門徒に協力を要請し、一揆勢は五万に膨れ上がる。三月、信長は従三位参議に叙任され、上洛し、祝儀の饗応を催す。顕如父子も招待されたが、病中にて不参との返事がくる。さらに堺衆を招いて相国寺で茶会を開き、東大寺の蘭奢待を所望したと告げた[その動機については諸説あり]。奈良からの帰途、信長は摂津阿倍野で本願寺勢に襲われたが、小競り合いであった。信長は、石山本願寺を攻めるのはまだ時期ではないと考えていたのだ。

 五月、武田勝頼が高天神城を攻め、家康が信長に救援を求める。それが間に合わないうちに家康側は降伏する。信長は甲斐の武田は時期がくれば熟して落ちる無花果とみなしていた。一方、長島征伐には本腰を入れる。六月に陣触れを出し、七月に九万の兵を動かす。願証寺に拠る門徒勢は二万である。兵糧攻めに及び、九月末、願証寺側が降伏した後、退散する門徒すべてを虐殺し、悉く焼き殺した。

 1575年の春には、石山本願寺を攻める作戦に取り掛かるつもりであった。四月、織田勢は十万を数える。先ず、高屋城の三好康長(元長の弟)を攻め、降参させると、京都へ引き上げ、岐阜に戻った。そして五月には、長篠城を包囲した武田勝頼に向かう。設楽ヶ原で、有名な(?)三段馬防柵、三千五百挺の鉄砲隊を持つ織田軍がが武田の騎馬隊を破る。

 八月、次の目標は越前の一向一揆であり、八万を率いる。丹後の水軍、家康軍を加えれば十万になった。一揆勢は内部分裂を起こし、崩れ去った。殺戮した人数を検分するのに、削いだ鼻や耳を笊に入れて持って来させたとある。一万二千二百五十の一揆勢を男女を問わず虐殺させた。

 本願寺顕如は信長に和睦を申し入れつつも、防備を固める。毛利輝元は、追放された将軍、足利義昭を奉じるつもりはなかったが、信長との縁を切り、本願寺を助けることにする。信長はそれらの動きを察知していた。顕如上人は雑賀衆の出兵を要請し、五千が本山に詰める。毛利水軍が石山本山へ兵粮を運ぼうとし、その陸揚げ場を木津砦が守る。雑賀衆の頭領、鈴木孫一は、二千の鉄砲隊と一万の門徒衆とともに三津寺に睨みをきかせる。織田軍は根来衆を雇っている。だが五月三日、原田直政討死の報を受けた信長は、大阪出陣を決める。信長は雑賀衆の弾に太腿を撃たれ、四天王寺に担ぎ込まれるも、再び出陣し、二万の門徒と激突した。

 一方、毛利水軍九百艘が木津川河口に着くと、織田水軍の大安宅船が待ち構えていたが、雑賀水軍とともにこれを根こそぎ壊滅させる。織田軍はなす術もなかった。

 翌1577年二月、信長は雑賀衆討伐に向かう。鈴木孫一らはその六万の敵を迎え撃つ。戦況は膠着し、信長側は誘降の勧告をし、休戦撤退した。

 八月には松永久秀が信長に背き、信貴山城に立て篭もる。信長はこれを攻囲したすえ、十月に陥落させる。久秀は平蜘蛛の茶釜とともに(?)果てた。一方、上杉謙信が加賀、能登を席巻し、越前(一向一揆は五月に鎮圧されていた)に迫る。織田軍は素早く近江に撤退し、謙信を呆れさせる。ところが中国地方へは羽柴秀吉を送り出す。対毛利戦のための根回しであった。鉄砲隊の威力がものを言った。

 1578年正月、信長はほぼ完成した安土城で、秀吉の軍功を労う。だが、別所長治が毛利方に寝返り、秀吉は三木城を包囲する。なかなか落ちず、こう着状態が続き、兵粮攻めに及ぶが、落ちるのは二年後のこととなる。

 一方、上杉謙信が三月、卒中で倒れて死んだ。

 四月には織田信忠が大軍を率いて本願寺を襲い、辺りの麦を薙ぎ捨てた。信長は大阪湾での海戦に備え、敵の度肝を抜くように、巨砲を搭載した巨大な装甲艦を鳥羽の海賊大名、九鬼嘉隆に建造させる。これら六隻の鉄船は五千の兵を乗せて七月上旬大阪湾へ入った。これは見に来た群衆を驚かせる。それを堺で目にしたイエズス会士は、これらは大阪を滅亡させると言った。九月に信長は上洛し、堺で鉄船を検分すると、堺の茶人たちにも見物させた。

 その頃、荒木村重方の動きに不穏なものが現われ、十月には毛利・本願寺側へと寝返る。説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の牢に幽閉された。

 

 法城不滅: 顕如上人はこの村重に誓書を与え、村重は決死の覚悟で応えた。村重の謀反は、摂津一帯の真宗信徒を勢いづける。信長の装甲艦を、浮いた鉄瓶のようだと揶揄する者もいる。本願寺へは朝廷から講和を勧める使節を来たが、婉曲に拒絶される。信長はイエズス会士オルガンティーノ神父を使って高山右近に交渉しようと試み、右近は信長に下る[その功績により、安土にセミナリオを建設できることになる]が、父の高山友照飛騨の守は下らず、後に越前に追放される。

 十一月、毛利の船六百隻が大阪湾に入るが、信長の鉄船六隻によって封鎖され、本願寺に兵粮を運ぶことができない。二度目の木津川口の海戦が始まる。九鬼義隆は充分に敵を引き寄せてから、大筒、長銃を一斉に発射した。形勢はたちまち逆転し、午前中には毛利の艦隊を駆逐した。

 信長は、勅諚に従い、本願寺・毛利と講和するつもりであったが、翻意した。須磨、一ノ谷の僧侶・百姓を老若男女の区別なく虐殺し、堂塔伽藍も焼き尽くすこととした。

 1579年5月、竣工した安土城天守に信長は居を移す。そして安土の浄厳院(じょうごんいん)で、浄土宗と法華宗(日蓮宗)の宗論を戦わせる。それは法華宗の増長を防ぐためのものであったので、負けたのは浄土宗であったが、信長は法華宗の負けとした。

 また、信長は徳川家康に、嫡子の信康と築山殿の殺害を命じる。信長の娘徳姫が父に姑と夫の不行跡を訴えたからである。家康は拒むことができなかった。

 荒木村重は人質を見捨てて出奔し、有岡城の女房衆百二十二人が殺され、一族と重臣およびその家族三十六人は京の市中引き回しのうえ六条河原で斬首された。同じく十二月、毛利氏は戦意をなくし、本願寺には合力なり難しと通報してきた。

 1580年、秀吉が兵粮責めを行っていた播磨の三木城が陥落し、城主が切腹した。こうして本願寺は孤立無援となる。顕如上人は安芸に移転も考えたが、毛利氏に拒まれ、和議を促す勅使に、石山死守の意向を伝える。五万の織田勢が摂津に入り、遂に顕如は教団存続のために石山明け渡しを決意する。四月、顕如は石山を出て和歌山に向かい、石山に残って抗戦を続けた教如も七月には明け渡しに応じる。引き渡し直後、石山本願寺は松明の火が燃え移ったのか、三日三晩燃え続けて焼け落ち、石山合戦は終わった。

 信長は和睦の後、旧怨を忘れたかのように顕如父子と慇懃を通じた、とある。

 

 本書の補足: 1582年6月、信長が本能寺に倒れた後、本願寺は光秀と、その後は秀吉と接近し、危機を切り抜けて大坂天満に寺地を与えられ、1591年には秀吉から京に寺領を寄進されて京に移った[現在の西本願寺]。1592年に顕如が没すると教如が跡を継いだが、翌年には引退させられ、弟の准如が跡を継いだ。しかし、教如は大坂の大谷本願寺(難波御堂)で活動を続けたため、本願寺は二派に分かれ、1602年、徳川家康が教如に京の七条烏丸の寺領を寄進し、東本願寺を建てた。

 

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 ▽修道館の西側にあったと考えられているようです。