私は仕事でイタリア人と茶道体験をすることがある。京都の高台寺や、宇治の大鳳庵などで。そして、わび茶や千利休の話をする。色々調べていたので、茶道の所作とカトリックのミサに共通点があることは知っていた(http://members.ctknet.ne.jp/verdure/Christmas/Christmas_5.html)(http://www.luther.ac.jp/news/20161201-03.html)。この本は、ふくさ捌きの所作などには一切触れていないが、千利休の賜死事件についての興味深い研究書のひとつである。

 

 序章ではまず、狩野内膳[1570-1616年、豊臣家の御洋画家として活躍]の南蛮屏風(https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028)が取り上げられる。神戸市立博物館内南蛮美術館所蔵のもので、その右隻に、イエズス会士とフランチェスコ会士に挟まれて描かれている老人が千利休だというのだ。その描写は緻密で写実性に富んでいる。件の老人はT字杖[聖大アントニウスの持物]とコンタツ[十字架つきロザリオ]を持ち、緑色の帯紐(表千家所蔵、長谷川等伯による利休の肖像も深緑色の帯紐着用、孫の千宗旦も同様)を締めている。南蛮屏風の拡大図を貼っておく。描かれたのは、利休の死後10年前後と考えられる。

 千利休は、1591年2月13日、京を逐われて堺に蟄居。2月25日、京の一条戻橋に、大徳寺山門の「杖をつき金剛草履を履いた」利休の木像が磔にされる。2月28日、その木像が踏みつける形で、折敷に載せた利休の首が晒され、木像不敬、売僧(まいす: 詐欺行為を指す禅の言葉)の罪との高札が立てられた。

 利休の死が切腹によるものか斬首か、事実を裏付けるものは存在しない。

 筆者は、賜死の原因を探る[読みながら、杖がT字杖で、履き物の「金剛草履」がイエズス会士の履くスリッポンのような爪皮付きだったので、キリシタンを連想させたのではないかと閃いた]。この本の筆者は、金剛草履は革で裏打ちした雪駄と推定しているが、堺で南蛮人の靴を目にして、足袋が汚れにくくて良さそうだと利休が草履をスリッパ風に加工したことはあり得るのではないか? 売僧については、一重切り、二重切りの竹の花入れが十字架を連想させるという。弟子の古田織部も、キリシタン灯籠など、十字架の意匠で知られているから、さもありなん、だ。

 そして筆者は、この賜死事件は大徳寺がらみの大問題だったのではないかと推論する。大徳寺は禅宗のひとつ臨済宗の寺であるが、茶の湯と関わりが深く、キリシタン大名に縁の塔頭[大友宗麟の瑞峯院、細川忠興の高桐院、黒田長政の龍光院、キリシタン贔屓であった石田三成の三玄院など]が多々あり、伴天連を庇護した織田信長や千利休の墓もある。秀吉は、徳川家康や前田利家という重臣を寺に遣わし、寺の破却を伝えた。これを迎えた長老のひとり蒲庵古渓[ホアン? 洗礼者ヨハネのことではないか!!]は小刀を手にして自害すると言い出し、長老たちは赦免された。

 秀吉による利休の賜死や大徳寺破却の脅しがキリシタン信仰がらみだとすれば、豊臣秀吉はこの頃どのくらいキリシタンを迫害していたのであろうか? その疑問にこの本は十分に応えている。有名な長崎における26聖人の殉教は1597年である。徳川幕府のキリシタン禁教令は直轄地に対して1612年、全国には1614年[加賀藩に庇護されていた、利休七哲のひとり高山右近はこの年に国外追放され、ほどなくマニラで病没]、鎖国が1616年である。秀吉による1587年の伴天連追放令は宣教師に関わるものであり、個人の信仰の自由は認めていた(大名は許可申請が必要)。1596年の禁教令は新参のフランシスコ会士が掟を知ってか知らずか熱心に布教したことにより、これが26聖人殉教となった。つまり、利休が生きていた時、キリシタン信仰は比較的自由だったのである。また、狩野内膳による件の南蛮屏風の制作(奈良の上村家伝来のものとのことで、奈良の利休一族の依頼により、と著者は推論している)もそのような時期かと思われる。

 筆者は、禁中茶会参列のための居士号「利休」[おそらく古渓の考案による]は、聖ルカから来ているのではないかと述べている。証拠はない。

 筆者は大徳寺にキリスト教に改宗したメイソンという禅僧がおり、禅宗の僧には他にも改宗者がいたというが、検索しても見つからなかった。ルイス・フロイスの『日本史』に出てくるというので、いつか読んでみようかと思った。大徳寺とキリシタンの関わり!! 日本が西洋文明と接点を持った安土桃山時代は本当に興味が尽きない。