渋沢栄一は2024年から新しい一万円札の顔になる。また、NHKの2021年の大河ドラマの主人公にもなる。 http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=20240

 それで、少し勉強しようと思いこの新書を読んでみた。

 幕末維新の状況を噛み砕いて分り易く綴ってあり、あっという間に読み終わった。

 

 渋沢は、藍(抗菌防虫効果がある染料)を商う豪農の家に生まれた。武士の威張る社会に疑問を抱き、尊王攘夷思想に燃え、仲間とともに倒幕攘夷のテロを画策していたが、 世界状況を把握していた明敏なる幕臣(平岡円四郎)と知り合うことにより、柔軟にその志を変えて行く。 その幕臣の執り成しにより農民の渋沢が、侍の衣裳を借りて非公式に徳川慶喜に拝謁した時、幕府の命運は尽きている、と苦言を呈したエピソードは有名である。その後、一橋家の家臣に取り立てられ(1864年)、商人感覚で一橋家の財務を好転させていく。

 ほどなく慶喜が将軍に就任。そして唐突にも渡仏することとなる。徳川慶喜の弟、徳川昭武が将軍名代としてパリ万博に行くこととなり、その一行の会計係に任じられたのである。スエズ運河を見て、株式会社の仕組み(合本組織)を知ったのをはじめとして、西欧の先進国5カ国の軍事施設、工場、病院、銀行、造幣局、新聞社など、あらゆる商工業施設を国賓待遇の視察団として見学してまわり、知見を広めることができた。渋沢は商人つまり実業家の目を以て西洋を見たところが、武士の留学生たちとは異なっていた。それにしても渋沢の理解力、記憶力、敷衍力は並大抵ではない。

▲徳川昭武一行。渋沢栄一は後列左端。(写真はwikipediaより)

 

 この足かけ2年に及ぶ留学の間、日本では大政奉還と明治維新が起こっていた。帰国後、主君の徳川慶喜の住む静岡に移り住み、ここに移住していた旧幕臣たちの自助のため、一種の株式会社、商法会所を設立した。静岡がお茶の名産地なのは、静岡に移住した数万の旧幕臣が茶畑を開墾したことによるものであり、その後ろ盾となったのがこの会社だったのである。これは目からウロコであった。 

一年後、明治政府の大蔵省に呼び出され、国の財政の土台づくりをする。当初は農民あがりと馬鹿にされたが、その非凡さはたちまち称賛の的となり、貨幣制度、郵便、鉄道、保険、銀行、製紙、建設、あらゆる事業を立ち上げるなど、政府のシンクタンクとして多くの事をなしたが、大久保利通とそりがあわず、大蔵省をわずか2年で辞職、実業家へと転身。日本で最初の銀行(現みずほ銀行)ほか、王子製紙、日本郵船、JR、東京ガス、帝国ホテル、清水建設など約500社を立ち上げ、日本経済の父となり、福利厚生教育のあらゆる施設を設立支援した。常に「公益」を念頭においていたところが、三菱財閥をつくった岩崎弥太郎との違いである。

去年、歴史秘話ヒストリアで取りあげた晩年のラジオ放送(1928年11月、他界する3年前)の言葉を記しておく。

「科学の進歩から戦争を昔日よりも二重にも三重にも激烈惨たんたらしめております。一国の利益のみを主張せずに、政治経済を道徳と一致せしめて、真正なる世界の平和を招来せんことを諸君とともに努めたいのであります」。

この人のツメの垢を飲ませたい為政者、実業家の何と多い今日か・・・。

 江戸幕府の奨励により、日本国内の寺子屋では教材として『論語』が購読されていたようだが、渋沢栄一の魂にはこれがしみ込んでいた。そのうち、 渋沢の書いた『現代語訳 論語と算盤(ちくま新書)』も読んでみようと思う。