「このドラマはフィクションです。」
おもにTVドラマが終わると、こういうクレジットが入ることが多い。
ドラマなんだから、嘘に決まっているので、わざわざこんな断りを入れる必要なんか無いのに、なんでこんなモノを入れるのか?
その説明でよく言われるのが、TVは映画や小説と違って、初めから嘘であると知って観てくれる人だけを対象としていないからとか、報道番組も放送しているので、現実と混同してしまうからだとか。
どっちにしても、現実と虚構を混同してしまうバカを対象に、あの断りを入れているということらしい。
そう考えると、なんだかTV制作者たちにバカにされたような気分になって、不愉快に感じてしまう。
そう考えると、なんだかTV制作者たちにバカにされたような気分になって、不愉快に感じてしまう。
だが、そもそもTV番組の中で、視覚化されたモノに現実なるモノはない。すべて見えているモノは嘘だといっても、言い過ぎではない。
誰かの思惑、妄想を、映像化し、編集したモノを番組と呼んでいるわけだから、それは誰かの主観の固まりだし、さらにその番組はTV局によって電気信号に変えられ、電波を使ってTVの受像器で再び番組に変換され、決して、本物の人、物、風景、音があるわけではない。
現実の世界で、空中に文字は現れないし、心境にあった音楽がどことも無く流れることもない。
あれを現実と混同する方がおかしいのだ。
だが、同じように嘘を本当らしく見せる映画や小説に、この手のクレジットはされない。
むしろTV以上に視覚的嘘は現実感を強めているし、情報量はTV番組を圧倒していて、現実との混同はむしろ映画や小説の方があると思う。
なのに、それがないのは、観客や読者のリテラシーを持っているからだ。
ここでいうリテラシーとは、一般的なリテラシーとは違うかも知れないが、番組制作者たちの個性を読み解く力のことだと理解してもらいたい。
むしろTV以上に視覚的嘘は現実感を強めているし、情報量はTV番組を圧倒していて、現実との混同はむしろ映画や小説の方があると思う。
なのに、それがないのは、観客や読者のリテラシーを持っているからだ。
ここでいうリテラシーとは、一般的なリテラシーとは違うかも知れないが、番組制作者たちの個性を読み解く力のことだと理解してもらいたい。
TVは、近代メディアでは比較的新しい分野である。
一番の老舗のTV局でも半世紀ちょっとの歴史しかない。
一番の老舗のTV局でも半世紀ちょっとの歴史しかない。
視聴者のテレビ第一世代は、いわゆる団塊の世代だ。
彼らは物心がついてから、TV体験をしたわけだ。
当然、TVに対するリテラシーを持ってなかった。
彼らは物心がついてから、TV体験をしたわけだ。
当然、TVに対するリテラシーを持ってなかった。
上の世代はTVについて、誰も分からなかった。
初期の番組は生放送がメインだったこともあり、ほかのメディアよりも現実感が強かったとおもう。
初期の番組は生放送がメインだったこともあり、ほかのメディアよりも現実感が強かったとおもう。
だからTVの影響をダイレクトに、視聴者は受けた。
TVは、現実を映し出してくれるモノという、思い込みが刻み込まれたわけだ。
さらにTVはメディアの王様になり、その影響力はとてつもなく大きくなった。
TVは、現実を映し出してくれるモノという、思い込みが刻み込まれたわけだ。
さらにTVはメディアの王様になり、その影響力はとてつもなく大きくなった。
いまでもたまに「TVでやっていた」とか「TVで言っていた」とか、曖昧な知識や見識に権威付けをするときに、使われるフレーズだ。
とりもなおさず、TVの中で言われていることが、現実であると錯覚しているからこそ、こんな言葉が出てくるのだろう。
とりもなおさず、TVの中で言われていることが、現実であると錯覚しているからこそ、こんな言葉が出てくるのだろう。
だから、TVはいちいち今現在放送している番組が虚構の出来事であると、断わりが必要になってしまったのだろう。
気がつくと、TVの中では、ドラマであろうが、バラエティであろうが、報道であろうが、何らかの画面で「フィクションである」といちいち出てきて、TV番組が虚構であることを強調するようになったからだ。
だからこそ、ドラマの最後に出てくるこの番組はフィクションですというクレジットを、うるさく感じるようになっているのだろう。
ここまでくると嘘でないのは、せいぜい教育テレビくらいだろう。
いっそのこと、「この番組は本物です」とクレジットした方が、画面がスッキリして、見やすくなるのではないか?