明徳との45年 1 | 脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

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明徳との45年 1

 

 

 

 

明徳を初めて認識したのは、1980年春の高知大会、選抜優勝して凱旋した高知商業とチャレンジマッチで壮絶な打ち合いを演じたのが最初。

13―11。延長に入り、優勝投手の中西から決勝ホームランを放ったのがのちにプロ入りする横田だったか。

エースは「ゲンちゃん」河野。

荒れ球だけど重い。

こちらものちにプロ入り。

 

 

 

 

この年の夏決勝でも両校は激突。河野がホームランを放つも高知商業にサヨナラで押し切られ決勝敗退。

 

 

 

 

 

 

報知高校野球で特集が組まれているのを読んだが、グランドの外野の壁に「全国制覇」と書かれていたと記憶している。

監督は名将松田さん。

この頃とても勢いのある学校ということでマニアにはかなり注目されていたようだ。

 

明徳がさらに有名になるのは1981年の秋の大会。

高知県を圧倒的な強さで制し四国大会へ。決勝では因縁の高知商業を撃破。

さらには明治神宮大会でも決勝で大府を破り優勝。

35,6連勝近くしていたのでは。

この時の早実は荒木大輔二年の代。

対戦したらどちらが強かっただろうか。

 

 

 

 

そして、四国大会初戦で畠山の池田をスクイズで上げた虎の子の1点で完封。

エース弘田の頭脳的なピッチングは見ものだった。

これが明徳の株をさらに挙げた試合だったと思う。

しかし事実上の決勝を制したことで燃え尽きたのか、次の丸亀商業にはあっさりと敗戦。連勝記録は思わぬ形でストップ。

 

 

 

 

 

 

しかし選抜大会に選ばれていよいよ甲子園初見参。

 

この選抜はものすごくハイレベルな来会だった。

連覇するPLには元祖三本の矢プラス1.

榎田、飯田、木本、伊藤だ。

もっとも木本はメンバーから直前で漏れたが。

 

そして東北の星、志田、松岡、金子の1~4番。

初戦PLと東北の激突は4-1というスコア異常にレベルが高かった。

そして箕島。1年生吉井がいたし先発メンバー全員が三割りバッター。

荒木、小沢の早実もいたし、三浦、荒井、高井の横浜商業もいた。

鳴門商業の変則アンダー山中(のちにプロ入り)。

千葉商大付属の平沼。プロ入り後、のちに清原のヒップドロップを喰らう羽目になる(笑)。

川相エース、四番本間だった岡山南。

川上がエースで四番の尾道商業。

野中、紀藤、森の一年生三本柱の中京(現中京大中京)。

内野の全選手が180センチ越えの愛知高校。エースはのちにプロ入りする彦野だ。

前年秋の都大会で早実をあわやまで追い詰めた二松学舎もいいチームだった。

エースは現監督の市原。四番上地もいいバッターだった。

 

選抜から漏れたが畠山、水野、江上の池田、

全国大会未出場ながら四国で頭角を現し始めた尽誠学園。

秋村の宇部商業。

山田の久留米商業。

大型左腕白次がいた泉州。

前年のメンバーが大挙残っていた近江。

一色監督の傑作帝京第五。

中村率いる花園。

この年の夏、無敵PLを予選で撃破して甲子園に出ることになる公立春日丘。

松島、笘篠、光山の上宮もいた。

本当にレベルが高い代だったと思う。

 

 

明徳に戻ろう。

初戦は西崎のいた瀬田工業を11-0と撃破。甲子園初勝利。

そして次戦が箕島との延長14回の激闘。

これがまた球史に残る激闘。

「武蔵が小次郎にやられた」の名言を残して逆転サヨナラ負け。

この試合に勝っていたら次戦はこの年、というか前年も含めて二連覇する、榎田、飯田、木本のPLだった。

明徳とPLの激突は1998年センバツまで待たねばならなくなる。

 

 

その後、明徳は四国で盟主的存在となり、甲子園常連校の仲間入りに王手をかける。

 

 

 

 

 

 

 

特に1983年の本戦センバツでの池田との2-1の激戦も記憶に新しい。

あわや、池田の夏春連覇を阻止するところだった。

そして春の四国大会でも池田と再戦、こちらも力及ばず。

この年の池田は、いわゆる水野、江上世代で、全国でも明らかにナンバーワンだった。

「打倒池田」は全国の野球部の共通のスローガンだったのである。

 

 

 

 

一方の明徳は夏は高知大会予選で敗退。

明徳を倒した高知商業が出て、準々決勝で、PLと10-9の激戦の末敗退。

この年、1年優勝投手となる桑田をノックアウトした唯一の高校だった。

 

さて明徳に話を戻すと、この頃のエースが2年生山本賢。

山本は翌1984年選抜でも優勝候補のエースとして甲子園に登場したが、伏兵大船渡に1-0で敗退。

なかなか結果が付いてこない。

でも、福岡大大濠高校との2回戦、延長での横田(1980年の横田とは別人)の決勝ホームランが記憶に新しい。

この横田は、1983年の池田戦でも一塁に入りっぱな逆転のきっかけとなるエラーを犯している。

その時の名誉挽回を果たした形だ。

ちなみに大会期間中の1984年4月1日明徳から明徳義塾へと校名変更。

 

 

センバツを制する高知商業を、前年秋の県予選で唯一無二苦しめたことで注目を浴びる。四国大会にはでられなかったが。

 

 

この年の夏にも甲子園へ初見参。

しかし新潟南という伏兵にあっさり負けてしまう。

まだまだ安定しているとはいいがたい感じだ。

 

そして、翌年のセンバツに照準を合わせて新チームが始動。

圧倒的な強さで高知大会、四国大会を制するが、ナント、野球部部長が大学野球の監督を招聘しようとして接待で、同校の女子生徒を枕営業で差し出すという前代未聞なハレンチ売春あっせん事件が発覚して、センバツ選考を辞退。少女売春斡旋を行い逮捕。

信じられない事件である。

 

これでミソが付いたのかしばらく明徳は鳴りを潜めるのである。

ちなみに翌1985年センバツに出た伊野商業は、、最強軍団PLを3-1で粉砕。

そのまんま初出場初優勝を達成。

 

1986年秋の大会で復帰を果たし、勝ち上がる。

この年の四国大会は明徳義塾、池田、丸亀商業、鳴門がベスト4に入るが、初戦敗退のまさかの松山北高校がセンバツへ。

 

本戦では初戦でこの選抜の準優勝地む関東一に3-1で初戦敗退。

のむら投手はいい投手だったけど。

初めての初戦敗退。

関東一のアンダーハンド平子のシンカーは本当にえぐかった。

 

 

1992年に久々に出場するが、まぁ何と言っても松井秀喜の5敬遠に尽きる。

1995年まではセンバツには出られず。

夏もパッとせず。

 

しかし1996年に久々のセンバツ出場を果たし、この後5年連続出場。

 

特に1998年春は準々決勝でPLと激闘。

一旦はエース寺本のホームランで勝ち越すが、PLの底力の前に逆転サヨナラ負け。

 

夏は準決勝で松坂の横浜と激選。

これも7-6でサヨナラ負け。

がっくりとマウンドに崩れ落ちる寺本の姿が印象深かった。

この年の明徳は悲運なチームという印象が濃い。