ここもハレの日によく言ったそばや。
岡崎の静かな界隈にポツンとあった。
近所に武豊の家があったっけ。
芳賀誠
荒木大輔の控えとして二年間ことあるごとにマウンドを守ったサイドハンド。
早稲田実業→早稲田大→日本IBM
荒木の背番号「11」、1981年の夏、鳥取西戦の9回の一イニングが、芳賀誠にとって最後の甲子園となった。
遡ろう。
1980年当時の早実は、2年生ながら絶対的なエースの芳賀誠が君臨。
2番手に速球派の3年生がいて、実はこの時点では、荒木は控えの三塁手兼3番手投手だったのだ。
なので背番号「16」。
一方、芳賀は板橋シニア時代から有名な剛速球投手だったという。
サイドハンドながら剛速球を投げ込む。
1980年の夏は芳賀中心に戦う予定だった。
ところで、前年1979年秋、早実には芳賀誠、帝京には伊東昭光と、共に2年生エースがいて、この両校がセンバツをかけて準決勝で激突。
伊東昭光が2-1で芳賀誠に投げ勝ち、見事に春の選抜出場を勝ち取るに至る。
さらに本大会でも伊東は選抜準優勝投手に輝いた。
で、夏。
帝京と二松学舎の両センバツ出場校中心の争いになると予測されていた。
早実の下馬評はこの両校よりも低かったのだ。
そんの早実、まず3年生投手が虫垂炎の手術を受け、東東京大会に間に合わなくなってしまった。
そして、投手が2人になったところで、今度は芳賀がバント練習中、ふくらはぎにマシンのボールを当て負傷。
大事な夏の甲子園をかけた東京都大会で二本柱がともに投げられなくなるという、緊急事態が発生。
結果、運命のいたずらか、早実に残された投手は控えサード兼任の1年生の16番だけになったのだが、この二つの伏線が後々大きすぎる意味を持つことになる。
で、順当に、帝京と早実は準決勝で激突。
先発は、ナント、「一年坊主」荒木大輔投手。
一応サードの控え的な立ち位置。
当然、伊東の眼中に荒木大輔などなかったであろう。
ところがふたを開けてびっくり。
春の選抜の全国準優勝校の帝京が、早実の「一年坊主」の先発、荒木大輔投手に完封負けを喰らう。
当時は実は大番狂わせ。
そして早実の決勝戦の相手は、春の選抜出場時は東京ナンバー1だった二松学舎大付。
10対4で、荒木大輔投手の早実は二松学舎大付も撃破。
ちなみにこの試合、二松学舎大付のベンチには荒木大輔氏と同じ1年生、この2年後の選抜で二松学舎大付を全国準優勝に導く市原勝人投手がいた。
なので、この頃の東京は、帝京(春)、早実(夏)、二松学舎大付(春)が全国大会準優勝でしたから、かなりレベルが高かったですねー。
この人も芳賀誠(笑)。
ヤクザじゃん(笑)。
京都滋賀にはなじみ深い西湖堂のBird。
当時は、お盆持ってトンク持って買うスタイルが珍しかったころです。
ウインナーが巻いてあるパンが定番でした。