小川博 | 脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

基本毎日更新。名誉も金も、素晴らしい音楽を作り人々を感動させようという気持ちもない、極めて不心得なアマチュアミュージシャンであり、アマチュアアーチストtrifling beetleの遺書。
HP https://triflingbeetle.wordpress.com/2025/09/06/trifling-beetle-official-hp/

 

 

前橋の玉三郎らしい(笑)。

 

サイドスローながら伸びのある速球とシンカーで三振の山を築いた名投手だったが。

三振にこだわり、派手に三振を取りまくっていたが、逆に言えば潰しが効かない不器用な投手であったともいえる。

初回からフルストットルで最後まで飛ばしまくらずに、時々手を抜いて、打たして取ることも覚えるようにアドバイスされたことは多々あったそうだが、全く聞く耳を持たなかったとか。

逆江川投法。

 特有の美学に取り憑かれていたんですね。

結局、2004年に取り返しのつかない犯罪に手を染めて人生終了。

無期懲役を喰らう。

社会復帰はできるかもだけど、プロ野球には二度と関われないんだろうなあ。

 

殺人シンカーで、自らの人生も一緒にシンカーしたんですな。

 

 

 

 

高校時代は前橋工業で甲子園を沸かせた。

常連だったと思う。

こちらの印象がとても強いんだよね。

 

当時の前橋工は、小川を含めて3人のスーパー投手を擁していて、毎回優勝候補にあげられていた。

が、結局は目立った成績は残せなかった。


2年の夏は、当時、釧路工業相手に滋賀県勢初勝利を挙げて勢いに乗っていた比叡山に2回戦で1-6で完敗。

また、3年時の、1980夏の鳴門との死闘も記憶に残っている。

延長12回サヨナラ負け。

初戦敗退。

当時の画像を見ると、高校時代はスリークォーターで投げてたようだ。

 

その後青学を経てプロ入り。

近鉄との死闘の伝説にも噛んでいる。

 

階段を踏み外した度合いが致命的だった。

 

ちなみに前橋工といえば、小川卒業翌年の1981夏には、当時1年生だった渡辺がデビューしている。


ただし、この時が、スーパー1年生、ポスト大輔と誉れたかった彼の唯一の晴れ舞台だった。

以後甲子園で診ることはなかった。

 

小川の話に戻るが、今彼は何を思うのか?

やり直したいと思っているのか、それとも、もういいや死にたいと思っているのだろうか。

 

塀のあちら側で。

 

死にたけりや、死んでください、遠慮せず

死にたけりゃ、いつでもOK 自己責任

 

アンパンマンさんの傑作川柳を送ろう。

 

いや、毒まみれだこと(笑)。

あはは。

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 

 

 

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