拝啓、山藤ドクター! | 脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

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名誉も金も、素晴らしい音楽を作り人々を感動させようという気持ちもない、極めて不心得なアマチュアミュージシャンであり、アマチュアアーチストtrifling beetleの遺書。
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拝啓、山藤ドクター!

 

優作が最後頼りにした西窪病院の山藤医師のことをいろいろと調べてみた。

きっかけは「越境者」を読んだことだ。

あまり情報はない。が、優作とのきずなが強固だったエピソードが山ほど出てくる。

どうも評判を見る限り、人権派の昔ながらの医師という感じ。

財前五郎の真対極だろう。

当時、武蔵野市にあった西窪病院というところも、メジャーではなかったし。

 

そうそう、屋上でヘリに向かって手を振り全快アピールした、あのガウン姿の石原裕次郎。

たしか慶応病院だったか。

 

ただ気になるのは「越境者」内での美智子さんの山藤医師に対する不信感。

本人に取材し、かなり辛辣な感じで書かれており、これはもう糾弾ととらえて差し支えあるまい。

 

 

<医師は優作と「心と心でつながっていた」「言葉を発しなくても通じ合っていた」と強調していたが、現実的な病状の説明は曖昧だったように思える。末期的症状を告げないことが、優作に希望をもたらしていたのだろうし、医師の判断が間違っていたとまでは言えないが、精神論がメインの会話だったとすれば、医師というよりは宗教家に近い。最後の入院で「そんなに悪くなってるなんて、どうしてあなたはいってくれなかったんだ」と話した優作の言葉は、医師への抗議の叫びではなかったのか>

(『越境者 松田優作』(新潮社)から)

 

そうなんだろうか?

ま、よくわからない。

 

しかし山藤医師、明静会の今井氏、などが複雑に絡み合っていたんだと思われる。

病に侵された優作が晩年愛用していた「飲むだけで腫瘍が消える怪しい水」の話も深堀したい気がする。

大人の事情か。

 

 

 

体の不調を訴えた松田が美由紀夫人と東京・武蔵野市にある西荻窪病院を訪れたのは、亡くなる1年前の88年9月27日。

しかし、その時すでにガン細胞は膀胱の壁にまで転移し、ほとんど手遅れの状態だったという。

問診にあたった山藤政夫医師は

 

「松田さんが『先生、俺、おしっこが出ねえんだ』と言うので診ると、膀胱がパンパンに張っていた。すぐに麻酔をかけて膀胱に管を通し、血の塊を溶かして尿を排出しました。あの状態ではさぞかし苦しかったでしょうが、一切表情に出さず、とても強靭な神経の持ち主だと感じましたね」

 

その後、山藤医師は松田に「膀胱ガン」であることを告げ、手術による摘出か、抗ガン剤を膀胱内に注入しつつ内服薬を並行する治療という選択があると話す。

 

すると、

「『先生、この仕事(映画「ブラック・レイン」への出演)は、俺が一生に一度出会えるかどうかの、デッカイ仕事なんです。だから、どうしてもやり遂げたい。たとえそれで命を落としたとしても、やらせてください』と。私は医師として強く反対しましたが、彼の強い意思は変わりませんでした」(山藤医師)

 

そして、「ブラック・レイン」が完成した10月7日、松田は再入院。松田が言った。

「先生、治ったら一緒に『ブラック・レイン』観に行きましょう」

 

実は、優作が入院中、水谷豊が何度も見舞いに来たそうだが、ある時、山藤医師に「僕も血尿が出るんですよ」と相談、検査入院したところ、見事に早期の膀胱がんが見つかったそうだ。

当然、入院、手術。

何という奇遇か、これ。

その後は優作が退院したら豊が入院ということが何度か続いたという。

水谷豊は病室入口のネームプレートの本名を書き入れることができず苦肉の策で「水田豊作」と書いたという。

これを見た優作は苦笑い。

 

そう、優作の主治医と、水谷豊の主治医が同じだったという。

そして水谷豊は、早期で済み、その後再発もないとのこと。

この話って初めて聞いたわ。