安倍晋三前総理の掲げていた「一億総活躍社会」の実現。
これって、「一億人は守るので活躍してね、残りの2700万人は切り捨てるので、自分たちで何とかやってくださいね」ということなんでしょうか(笑)。
「一億総特攻」「一億総玉砕」・こういう表現がお好きなんですね、日本のお偉いさま(笑)。
振り返ってみる。
コロナ禍は本当にしんどい。
しんどかった、ではなく、現在進行で「しんどい」。
パンデミック、エビデンスなんかの聞きなれない単語がそこらじゅうで飛び交っていたし、毎日どこかのドクターがテレビに出て、リモートで解説をしていた。
あ、そうそう。
この「コロナ解説バブル」の潮流に乗っかり、頻繁なテレビ出演の手間を理由に、「縁あって芸能事務所と契約」したよくわけのわからない先生もおられた(笑)。
この人、毎日出ていた一人だが、言っていることが当たり前で当り障りのないことで、「で、どうなん?」と見るたびに突っ込みを入れていた次第。
「いや、それはネットなんかで流れまくっているから、もうお腹いっぱい、ええねん。」
「で、どうしたらええの?」
...ってね。
それと多少、言っていることが、局や番組というか、日によって、違っているのもなんかなと感じた(笑)。
北村先生とかとの解説とは全くレベルが違って、もっと突っ込んだ情報が欲しかった自分は。しゃべくりだした途端、毎回チャンネルを変えさせてもらった次第。
この災難はいつまで続くねんという感じだが、その反面、今さえ良ければ、自分さえ良ければそれでいいという人々の本性を、見事にあぶり出したとも思う。
マスクをフリマアプリで売りさばく為に買い占め、列に割り込み殴り合い。
飲食店でマスクをせずに来店した人を寄ってたかって袋叩き。
人の心底の意地悪さ、えげつなさ、いやはや堪忍してくれである。
上のいうことを無条件で、よく考えもしないでおとなしく聞き、同調圧力に逆らう人間を寄ってたかって袋叩き。
出る杭はこぼすことなく例外なく叩く。
いや、性格悪すぎるわ。
わが大和民族。
そうかといえば、安倍晋三元首相の国葬に反対する人も多い。
そういう点だけを見れば、なかなかやるじゃんという気がしないではないが、結局、上に押し切られて終わりか。
1980年・点景
移民する友へ。
安東君が札幌へ転居することを初めて知った時は、なんか、心が引き裂かれるみたいだった。どのタイミングだったかな。
本人からじゃなかったのかもしれない。
1979年5月か6月か、に公開された「病院坂の首縊りの家」を一緒に見に行った。
そのあとお決まりのように、三条十字屋へ行きギターを触り、レコードやへ行き、楽譜コーナーでバンスコなんかも見たかも。
ぶらぶらして帰ってきた。
あの時初めてベースギターを触ってみたけど、重さにビビったことを覚えている。
その後、トラスロッド二本入っている超重量ベース・リッケンバッカーを弾くなんて、そのころは考えもしなかったなぁ。
三年になってからはクラスも違い、なんかとんでもない距離を感じ、接触を自粛していた気がする。
他の仲良かった連中もそう。
あんなに仲良く、結束も堅かったのに、クラスが異なるって、大きいことなんだなと実感。
1980年・点景
札幌商業、旭川大高
安東君が北海道に引っ越しする前日、何人かでお別れを言いに行った。
小雨の日、朝から寒かった。
1980年は、1993年と並び、観測史上名高い記録的な冷夏だった。
安東君にさようならを言いに行った後、なんとなくその流れで石野の家に集まり高校野球を観戦。
ちょうど8月15日、お盆の最中。
その日の高校野球の結果を見ると
旭川大 3 - 2 南宇和
滝川 6 - 5 敦賀
浜松商 5 - 3 大分商
札幌商 7 - 5 双葉
南北北海道代表がそろってベスト16に進出。
非常に珍しい出来事だった。
その後、駒大苫小牧や北海が何度も決勝に進出するが、この頃の北海道は、お世辞にもあまり強くなかった。
ただ、いいチーム、いい選手は山ほどいたけど。
あの日が、1980年の冷夏のクライマックスだったと思う。