誰とも通じ合えない世界の中で、素晴らしい絶景を目の前にして、だれにも伝えられず、感動を分かち合うこともできず。
なんかそんな感じだった。
アブサンドリップとは、アブサンの伝統的な飲み方の一つ。
アブサンを入れたグラスの上に穴の空いたスプーンを置き、そこに角砂糖を1つ乗せ、上から水を1滴ずつ垂らしていく。
アブサンに水が落ちると成分同士が反応し、鮮やかな緑色が徐々に白濁する様子が楽しめる。
角砂糖が溶け始めたら、スプーンごとアブサンに入れてよく混ぜて飲む。
なかなかシャレオッである。
角砂糖に火をつける飲み方もあるとのこと。
1981年・点景
ほんの束の間だけの天国
いじめられる側に、原因は、ない。
いじめる側にも、実は、かくいうれっきとした理由も、ないのだ。
そう、いじめる原因とは、いじめる側、すなわち加害者たちにより、勝手に創作されたものに他ならないのである。
架空の創作物なのだ。
だから、それはまっとうであるはずがないのである。
また、質が悪いことに、そのフィクションな原因を作り出した側が、自分たちがそれを作り上げたことや、その原因が根拠のない架空のものであることなど、一切合切を忘却の彼方においてしまうのである。
最初から「いじめる原因」が、誠に正当な理由の下にあったもの、つまり動かしがたい正しい事実として、錯覚誤認してしまうわけだ。
ひとりではなく、いじめを行っている集団全体で。
こうなるとこういういじめ集団とは、単なる厄介極まりない集団ヒステリーの一種であると考えることが妥当だと思う。
集団で病んでいるのだ。
そういう空気の中で生きてゆくことは、死ぬよりもよほどつらいことだということくらい、いともたやすく想像できる。
また、ここも大切なのだが、いじめとは、「いじめ」という言葉でやんわりカムフラージュした、ただの犯罪行為に他ならないということである。
同情の余地はない、ただの犯罪だ。
暴力、傷害や殺人と何ら変わりない。
これは特定の個人に対して、明確な軌跡を持ち、誰から見ても明白な元に起こり、徐々に大きくなってゆくもの、またそういう問題ではなく、それはごく些細な取るに足らないことから急に、突然、なんとなく始まり、急激に拡大と縮小を繰り返し、気が付いた時にはすでに手遅れになっているという類のものなのである。
大多数の加害者と、ごく少数の被害者という、この卑劣極まりない構図。
そして位相はいともたやすく入れ替わる。すなわちいじめる側といじめられる側は簡単に入れ替わるのだ。
いじめられたくなければ、いじめる側に有無も言わずに加入することを、無言のうちに、強制的に、無条件で要求される。
全員参加が基本、非参加者は「悪」「裏切り者」「いじめらる側の人間」「いじめられて当然の人間」とみなされる。
とんでもない悪の正義化だ。
毎日、「正義」か「悪」か、そのためのふるいも行われ、抜き打ちでかけられることも多々ある。
その判別のためには非人道的な踏み絵行為も辞さない。
前述の如く、いじめは心の病なのである。
それは見えないところで次から次へと感染してゆく。
コロナウイルスと同じだ。
このウイルスは、ウイルスに侵されていない人のみにダメージを与えるという、非常に質が悪い代物で、ダメージを回避するためには、感染することが必須とされる。
つまり、加害者にならねばならない。
それを条件に、あくまでも胡散臭く一時的にすぎないが、安全、のようなものが保障される。
そして、いじめられる側によっては、感染しないことにより、「死に至る病」となりうるというこの言いようもない矛盾。
いつ果てるともない、まったく希望がない嵐の中に佇むよりか、死んだほうが、よほど楽なのだから、である。
そんなクソみたいな嵐の中にいることはない。
とっとと逃げればいいのだ、しっぽを巻いて。
それが正解だ。
そして、当てにならない学校、ヘルプレスな空間は回避すればよい。
休めばいい。逃げればいい。頼りにならない、くだらないものである限り。
自分の身は自分で守るために、安全、命がちゃんと保障されるまで、のこのこと行く必要なんてないのである。
生きたいのであれば、自分の本能に素直に従えばよい。
ほんの束の間だとしても、居心地のいい平和な天国でのうのうと、傷ついた心を癒せばいいのだ、さなぎになって。
安全が保障されていない場を、見て見ないふりで面倒くさがって放任していること、それは明らかに、学校側の管理責任の放棄なのである。
本来の職務を放棄しているのだ。
そんなクソみたいなところには背中を向ければいい。
命の危険を感じる場から非難し、その結果、内申点云々なんてまったく関係する余地のないないほどの学科試験の点数をとり、公立も私立も、どちらも見事あっぱれに突破したのだから、何をかいわんやということである。
な、定塚、そら見たことか!お前の望み通り、東稜に受かって、やったぞ。バーカ。
公立を蹴ることは、最初から準備していたことである。行くつもりなんて毛頭なかった。
だって、漏れなくナイルパーチたちの残党がくっついてくるんだぜ。
同じことの繰り返しになることは火を見るよりも明らかだ。
バカでもわかるよ。
それは確固たる意思だ。
誰にも侵害されるおぼえなし。
外野がグダグダぬかすな、それだけである。
正しいこと真理は、あの当時も、そして今も、自分の中にある。
たとえ担任が「お前は考えすぎだ」と電話して来ようとも、発覚を恐れたクラスメートがしれーっと接触を試みようとしてきたとしても。
内申点の低下をエサに、問題をなかったことにして保身を図ろうとしても、だ。
どんな妨害や、せこい工作を図られようとも、すべてを蹴散らかし、粉砕してきた勇気を、素直に称えたい。
まっとうな判断だったなと、手前味噌ながら自分で自分をほめてやりたい。





