広末涼子と三上博史の主演ドラマ「リップスティック」というものが、かってあった。
非常に凝ったものだった。
映画的。
それでいて野島伸司作品にありがちな展開、つまりかなり鬱的であり、観念的。
それ故にあまり一般受けが良くなく視聴率は散々だったとか。
しかし自分はこのドラマがとても好きである。
まず、役者の入り込み方が相当だ。
憑依しているというか、怖いくらいに役柄になりきっている。
冷静に考えたならこれはドラマの話であり、リアリティが薄いはずなのだが、圧倒的なリアリティを持っていて、観るものを取り込んでしまう。
好きな人は好きだが拒絶反応を示すヒトには、あくまで嫌いな類かと。
それくらい役者がうまい人ぞろいなのだ。
というか、奇跡的という感じでもある。
だからこそ、観るものに感動とか、感激とかいう生ぬるいものだけでなく、凄くヤバいものまでを突きつけてくる。
こういうアブナイ系なドラマは昨今、あまり見かけない。
そのなかでもまず、三上博史の壊れて行きっぷりが凄く怖い。
そして、美しいと思う。
映像美もそうだし、彼自身も凄く美意識が飛びぬけた役者らしいと聞く。
そんな三上博史の演じる、「アーチストが内に秘める脆弱性の暴露」は、まさにこのドラマの肝だと思う。
広末の演じる透き通った狂気というものも凄い。
この頃の、というか、この作品での広末は他のものとは明らかに、まったく違う女優である。
今の広末の演技とかは問題外だと自分は酷評しているが、この作品においては、恐ろしいくらいの透明感と暴力性を放っていて、最高傑作と誉れ高いのも頷ける。
台詞があまりない主役ということで、表情や仕草、そして目力で感情のデティールまでをも有り余るくらいに表現している。
これを見ると、その後の広末はまったくどうしたんだ、何で伸び悩んでしまったんだという、残念な気になってしまう。
友人の葬儀で、手錠を嵌められながらも傘をつかみ、友人を死に追いやった相手を突き刺すシーンは秀逸だ。
金八先生での「加藤と松浦の連行シーン」を髣髴させる。
その前後の目の演技もまた凄い。
鉛筆をつかみ報復に行こうとする伊藤歩を制して、振り向いたときのあの目。
恐ろしいほどの悲しみと怒りと、そして殺意、狂気を感じる。
ド迫力である。
脇役として全編に出ていた伊藤歩と池脇千鶴、あと麻生祐美も素晴らしかった。
窪塚洋介、いしだ壱成に関してはもう次元が異なる演技だ。
この後、両者ともに見る見るうちに精細を欠いて行ったが、それも残念だ。
片や極右傾化し、ⅰ can fly、片や薬物依存だ。
二人ともに現在、役者として復活の兆しを見せていることは素直に嬉しい。
伊藤と池脇は、当時から映画を主戦場とする若手演技派女優で鳴らしていただけにさすがという感じだが、あまりにも役に入ってしまっていて、さすがに痛々しいくらいでもある。
それが、とんでもない量の感情移入を呼び起こさせたのではなかろうか。
伊藤の、ヤンキー少女が顔をくしゃくしゃにして泣く、なんとも無防備で間抜けな表情とか神業だ。
あの表情だけで、伊藤演じる役柄のキャラクターやパーソナリティというものがありありと伝わってくるし、それがリアリティを持ってこちらへと迫ってくる。
パッと見、田舎のヤンキーというか、金太郎人形にも見えてしまうこの頃の少しポッチャリとして垢抜けない伊藤歩は、この役のために声をつぶそうとしたと聞いたことがある。
しやがれた男性的な掠れ声にしたかったのだろう。
要望があればばっさりと剃髪する女優さんだ。
肝の据わった魂を感じる。
この後しばらくしてミーン・マシーンのボーカリストAYUMIとして歌手デビューしていたが、もともとボーカル力は定評があるし、ステージでの動きもなんちゅうか、素人には思えないくらいにすごかった。
「バンデージ」でも、「元ドラマーで現マネージャー」役を演じていたが、実はこの人、実際にマネージャー経験があるんじゃないのかと思わせるほどだった。
バンドのリハをバックに、赤西仁と、お互いにダイナミックマイクを使っての口論応酬を交わすシーンなんかはすごく印象深い。
なんか不思議なものを持っている人だと思う。
池脇千鶴は、良くも悪くも、どんな役でも同じ役柄に感じてしまうこともあるが、それは童顔なのと声のせいで、ひとつひとつの役の住み分けはキチンと行っているところが凄いなと感じる。
このドラマと「大阪物語」「ジョゼ…」「きょうのできごと」の役柄は、すべて似て異なるものだ。
このドラマでの池脇の役は、ひとことで言えば「薄幸の極み」だが、「ジョゼ」での電動車椅子を乗り回す姿の薄幸感と、ここでのそれとはまったく印象が違う。
というか、温度とか、エネルギー、ベクトルが明らかに違う。
ここでは薄幸感の持つ痛々しさを、切ない程に暖かく神々しい、そんなやさしさへと昇華させて提示させている。
昨今の単なる低レベルなボンクラタレント女優たちとはまったく次元が違う感じがする。
池脇の自殺でドラマは一旦ピークを迎えるわけだが、そのエピソード自体が凄く美しい。
あんなに美しい「自殺シーン」はおそらく初めて見たと思う。
とても飛び降り自殺には見えないほどで、それは天女が空に向かって飛んでいったように見える。
麻生については貫禄さえ感じる。
最近見ないが、本当にいい女優さんだけにとても惜しい感じがする。
さらに、このドラマには、他にも特筆すべき名シーンがいくつもある。
例えば、もうすぐ裁判が始まるよねということを女性五人が、布団を敷きながら順々に語り合うシーン。
順々ではなく、同じ部屋での平行同時進行なのだが、そのごく平凡なシーンをめまぐるしくカメラを切り替えることによって、なんとも素晴らしいシーンへと展開させている。
ランダムに映る五人の表情や仕草。
それだけで、説得力は何倍にも増し、活き活き感が溢れんばかりだ。
やがて、自由への憬れや渇望というものが、まったく嫌味なく入り込んできてくれる。
スローでやっても良かったのではと思うくらいに、とても好きなシーンで、まるでフワフワとやわらかい上昇気流に抱かれて、そしてゆっくりと天へ向かい浮かび上がっていく感じがした。
実は、泣けるシーンの一つ、でもある。
映画的、芸術的だな、このカメラワークはと唸ってしまった。
同じ手法はひまわり畑で戯れあうシーンでも使われていた。
こういう手法を使うことで、何気ないシーンが本質的に孕む、深い意味とか、理由とか、感情表現だとか、そういう台詞などでは表現しきれない本当に些細な点を見事に補っている。
なので、15年たったいまでも、自分の中ではとても印象に残っている。
さて、広末と三上が主役なので、ふたりの物語を芯として展開するのだが、それ以外の主要な登場人物のドラマというものも、極自然にさりげなく、見事に織り込んであったりする。
それらは最初、あまりお互いに絡み合うこともなく、別々に展開して行くのだが、池脇の葬儀というクライマックスに向けて、徐々に、緩やかに絡み合ってゆき、やがて一本になる様はすばらしいとしか言いようがない。
同じ年に放映された野島作品の「美しい人」がグダグダだっただけに、なおさらそう思う。
このように、ドラマとしての完成度はかなりのものがあると思うのだが、あまりにも続く鬱的展開で、さじを投げてしまった人も多かったと思うが、それはあくまで視聴率という目に見える部分での結果だと思う。
そんなことはどうでもいい。
このドラマの本質や意義は、目に見えないところにあるのだから。