アパートの階上の住人がようやく引っ越していった。
暴力団関係者なのは見え見栄だった。
で、一番迷惑していたのは、ベランダに毛布を干されるときだ。
そのときに、バンバンとド派手な音を立てて埃を撒き散らすことくらいは、百歩譲って許そう。
しかしである。
陰毛を階下に撒き散らすのだけは止めて欲しかった。
家の洗濯物や同様に干している布団を直撃しているのだ。
暴力で犯されている気分になる。
明らかに自分の陰毛ではないということがわかる形状。
で、数がハンパ無い。
どれだけヤッとんねんということと、どれだけ毛深いねんということ、あるいはもしかして寝るとき裸族か?などということを密かに想像してしまい、結果、激しく吐きそうになった。
おやすみタイムは裸族な暴力団関係者…意外とキャバクラのおねーちゃんとかには超カリスマ的人気者なのかもしれないな。
とりあえず天気の良い日は例外なく干していたようだが、几帳面なヤクザ屋さんだなと思うと、少しだけカワイク思った(笑)。
小説をこつこつと書いたり、音楽を自宅でせっせと録音したりという人が、自分の想像をはるかに超えた数で、インターネット内に溢れかえっているということを、ここ4、5年の間に初めて知った。
まだまだ特別な世界かと思っていたのだが、想像以上なんだな。
例えば読書好きな人とか映画好きな人、写真に撮られるのが好きな人などがいるとして、そういう人はいつの日にか、今度は受け手側ではなく、送り側に立ちたいと思うときが、多かれ少なかれ来るのではなかろうか。
レスポンスを得る側に立ってみた自分というものに、並々ならぬ興味が湧くというか。
そうやってまた、レスポンスを得る側へと帰って行ったり、帰らずそのまんまになったり…。
ある意味そういう反応は健康的なのかなぁと思う。
自分の中に積もり溜まったものを一度吐き出してみるのだ。
何事にもカタルシスは大切な気がする。
それはそれでかなり有意義だと感じるが、問題はそこからどう続くかにあると思う。
そのさじ加減を見誤ると本当に悲惨なことになりかねないし。
イヤイヤ、でもなんでも自分の思うまま、好きなままにやればいいんじゃなかろうか。
最低限、他人に迷惑をかけなければいいんじゃないかと、自分は常日頃、強く思う。
「ポトスライムの舟」(津村記久子)は、ごく日常的な話だ。
ありふれているといえばそれまでだが、本当に凡庸なのである。
テーマ的にも、この「超日常性」が根底をなしている小説であり、描かれる登場人物のあまりにも日常的過ぎるイベントに、なんか溜息さえ混じってしまうくらいだ。
ただ心理描写という面においては非常に細やかで、そして面白い。
この作家の持つ特異なアドバンテージの一つだと感じた。
何にもないし、起こらない、そんな小説。
悪くはないけど、良くもないという感じのレビューが大多数なのではと思う。
ただ、こうやって淡々と日常を描き続けることは無意味ではなく、自分的には大好きな範疇にあるもの。
特にイベントの無い日常を、ごく小市民的視点で眺め回すと、するとそこにはいろいろな滓が浮き彫りにされて見えてくるきがする。
こういう滓の存在を愛しく思いながらも、そういう日常からの脱却を夢物語として思い描くことは、絶望ではなく希望の領域にある。
それ故に心がとても軽くなる。
これはいわゆる共感というものだろうか。
共感だけの小説というものも、時には悪くは、無い。
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