少年時代の記憶って、一概にそうとは言えないが、虚実が混濁していることが多々ある気がする。
自分の独りよがりな妄想の産物を、紛れもない「真実」として信じ込んでいたりとか。
そういう記憶のすり替えが、いつの間にか自然に執り行われていたりする。
だから、自分の、古い記憶についてはあまり確信が持てないことが時々あるのだ。
もう、例えば小学生時代の友達と話すことなんて皆無だ。
話すどころか会うことさえも全くない。
なので、記憶の誤りを指摘してくれる存在というものもまた、皆無なのだ。
なんとも奇妙な感じである。
例えば同窓会なるものがあったとして、そこに来ていないかってのクラスメートの顔、名前、更にはその存在の有無さえも、全くもって不確かなことってないのだろうか?
よく「空気のような存在」などと揶揄されることがあるが、そういう存在の同級生は、実は誰にでも一人や二人はいると思う。
実際に、自分が、中学三年のときの5組の同級生の顔と名前をすべて覚えているかといえば、全く自信はないし、よく一緒にいた連中に限定しても、存在をすっかりと忘れきっているクラスメートが、確かにいるのだ。
名前や顔だけじゃなく、存在そのものというか。
それは見方を変えたならば、自分もその「存在を忘れ去られているクラスメート」側になっている可能性も大きいということであろう。
これは悲劇なのだろうか?
それとも、違うのか。
何となく暗澹たる気分になることが、やはり多い、自分は。
自分は中学三年の三学期にはほぼ登校していない。
実は卒業式にも出ていない。
参列する気さえも無かった。
卒業とかなんて、そのときの自分には、どうでもいいことだったからであるし、今で言う「不登校」、当時は「登校拒否生徒」と呼ばれていた存在だったから、何となく行きづらかった...からである。
まさに、三学期に限定すれば「空気」のような存在だったのではなかろうか。
理由はいくつかあるが、一つは思春期特有の感情の混乱によるもので、詳しく言えば自己同一化の段階の最中にいて、自分は、いったい何をどうすべきかということが全くわからなくなってしまったことがあげられる。
まさにラビリンスの中を彷徨うような自問自答、自罰的思考、そして、自分の未来へのとめどない疑問、不安、混乱と幻滅。
非常に粗く、幼い禅問答という感じだ。
なぜ、学校へと行かなければならないのか?
何もわからないし、どうしたらいいのかもわからない。
とりあえずわかっていることは、行かなければ今後、自分の人生は取り返しのつかないことになりそうだということ、そして自分は高校に行かなければ行けない、それも公立高校へ...ということだけで、そのことさえにも勇気が湧かない、自信が持てない、希望を見出せない。
そんな泥沼の状態で、必然的に昼夜は逆転し、学校からは足が遠ざかるのみだったこと。
もう一つは、もちろん当事者にも悪意はなかったのだろうと思うが、クラスメートのちょっとした何げない一言で深く傷ついたことだ。
当事者は、いまさら、そんなことなんて全く憶えていないだろうし、それをなんやかんやというつもりなんて毛頭ない。
こども時代の、ほんのちょっとした言葉のあやの、すれ違い…なのだ。
自分でさえも、実はもう詳しいことは記憶していない有様である(笑)。
そういう、主たる二つの理由で、学校へと行かない少年になっていた。
だから、自分の存在って、あの当時のクラスメートの今現在の記憶の中においては、実はとても希薄なのかもしれないなと思う。
少し話が脱線したが、そういう記憶にも残っていない存在であったり、言葉であったり、感情のすれ違いとかを、ふと手繰り寄せたくなることがたまにある。
実際それらは手繰り寄せても、近くには来ないまま、悶々とした感情だけを置き去りにして、再び、記憶の闇の最も深いところに身を潜めに戻ってしまうのだが。
しかし、そういう感情のいくつかについて、いつも思うのは、できればそのときに解決しておきたかったなということだ。
そういうことをすべて「なあなあ」にして、そうやって自分は大人になってきたのだなと、後悔もする。
その積み重ねが、今現在のこの俺なんだと。
解決、なんて土台無理だろうと思う、その当時の自分(たち)にとっては。
無理で当然である。
しかし、一つそうやってトライすることで、少年時代に何か一つ、大事なものを手に入れて、そして大人へと来れたのかなと。
まぁ、自分自身が少年から大人へと、上手に脱皮できているとも、まったく思えないのであるが(笑)。
とにかくこの年齢の、こんな自分のような人間にとっては、この先、手に入れるものなんてたかが知れている。
というか、ほぼないのかもしれない。
むしろ喪失していくものばかりだろう。
だからこそ当然の如く、今を生きることを何よりも大切に思いながらも、過去に思った大切なこともまた、ずっとずっとずっと、心の中で大事にしてゆきたいなとそう思う。
できるだけ。
「20世紀少年」というコミック、及び映画は、そういった感情を鋭く、そしてやんわりと想起させてくれた。
浦沢直樹さんが伝えたかったことはたくさんあるのかもしれないし、すごくシンプル極まりないことなのかもしれない。
自分は、子どもの頃を何となく、そしてごく自然に重ね合わせることができたし(背景描写なんかも含めて)、振り返ることもできた。
凄く貴重なタイムスリップ、もしくはプレイバックの時間だった。
自分は浦沢作品の大ファンである。
「パイナップルARMY」「YAWARA!」「MASTERキートン」もいい。
だけど、やはり「20世紀少年」および「21世紀少年」に尽きるのだ。