一匹の王様象がいた。
大きな象だ。
能力も力量も十二分。
その王様が小さい蟻たちを次々踏みつけて全滅を図ろうとする。
最初は余裕綽々でタカをくくって、舐めていた。
だが、しかししかし、あまりにも数が多いのと、的が小さ過ぎたりしててなかなかうまくいかない。
力量的、質量的にはその差は歴然だ。
しかしそのアドバンテージをうまく生かせず、なかなか目的を達せられないまま、まんまと蟻を逃してしまう。
逆に、夜、闇にまぎれた生き残りの蟻たちの大群が象に襲い掛かる。
目を食べられたり、はたまた鼻などから頭の中に侵入されて、脳に続く血管を食いちぎられる。
脳内出血を起こしたりして、とうとうたまらなくなってしまい、象は大地に倒されてしまう。
最後は「蟻葬」の餌食となり、見事にリベンジを果たされてしまうのだ。
...すごく象徴的なシーンだった。
「サウンドスケープ」という言葉は、カナダの作曲家 R・マリー・シェーファー氏が、環境の中における音の存在を表現するものして提唱した言葉として有名だが、日本ではこれに「音の風景」という和訳が与えられている。
つまり、景観の中に景風や景色があるように、音の世界にも同様のものがあると定義された、「音と風景をセットにして捉える感覚」のことだそうだ。
音楽も譜面の中ではただの音符の集合体だが、演奏され、音となって空気の中に溶け出した時、はじめてサウンドスケープの一部となる。
音は人の生活の中にごまんと溢れているが、それを普段、意識する機会が少なく、その存在自体があまり認識されていないのも事実だと思う。
騒音も、サウンドスケープのひとつである。
何げない生活上で、それまで意識しなかった音の風景を感じることは、独特の柔軟性を養い、魅力を感じるという。
音の聴き方が一新され、音の感受性が大きく変革されるからである。
こうやって音を意識し始めると、その風景をぜひ表現してみたいという動きさえ出てくる。
サウンドスケーピングというものだ。
自分はいつからか、このことに凄く深く、深く興味を持ち始めた。
街の中の音景色、田舎の地方都市のそれ、私生活の何げない一場面、思い出の中の景色…表現したい題材は、ほんとうにたくさんあって、なんか収拾がつかない。
しかし、音景色を表現した楽曲、もとい音楽を聴いたときにぱっと風景が浮かぶ作品、には並々ならぬこだわりを持っていて、実はごく基本的なことだと思うが、これの実現は相当難しいと感じている、少なくとも自分には。
そういう技量も才能も少ないからだ…。
当然、創作するということは最初からそうじゃないかという突っ込みは、この際スルーさせてもらうが(笑)、音楽という絵の具で自分なりに納得できる絵が書けたときの痛快感は、そうそうあるものではなかった。
稀有で、ナニニモカエガタイ体験。
それがまんまと聞き手に伝わったときなどは、もう死んでも良いとさせ思えるものだ。
だからこそ、このことにこれからもこだわって創作して行けたらなと、日々精進している次第である。