ミュージシャンの高野寛さんがフェイスブックでシェアしていた「日本のシンガポール化」という論文に興味を惹かれた。
そもそも自分的には、シンガポール化はもちろん、シンガポールという国の詳細についてもほぼ知らないのだ。
なので、これはかなりショッキングな内容だった。
まずシンガポール自体が、はるかに日本を凌ぐ経済発展を遂げているそうだ。
GNPが世界第十位だとか。
自分にあった僅かな予備知識の一つだが、シンガポールは中国からの移民で成立している。というか、移民がやたら多い。
で、そんな国が目指すもの、それはズバリ「経済大国」。
経済発展至上主義だという。
国家概念を引用してみると、「唯一最大の国家目標とは経済発展であり、国家システムはそれに奉仕する限りにおいて有用」だという。
そのために国家的な規模の色々なからくりがあって、まず国家に背くものは強烈に排除されるそうだ。
というか、そもそも背くものがほぼいないとか。
経済のためなら人権なんて..という思想が万延しているそうだ。
不満はあるけど、でもお金が入ってくるから..という理屈なのだろう。
お金で人を黙らせていると思って違いないのではなかろうか?
そこに基本的人権の尊重だとか、民主主義という思想はほぼないと思われる。
こういう独裁国家制度下では、往々にして劇的な経済発展を遂げることは、歴史的に見ても明らかだ。
逆に言えば、こういう経済発展を遂げながらも、人権、社会福祉などもまた、それに併せて発展、成熟している例というものを、自分は寡聞にして知らない。
システム上、その両者間にはどうしようもない矛盾があることは、これまでいろいろな経済学者、社会学者がさんざん論じてきたことではある。
では、日本のシンガポール化ってどうなのだろうか?
平たく言えば要するに、独裁的なシステムを構築して、経済的な発展を遂げること..なのだろうと自分は感じた。
これはどうなん??
とても怖いことだと思うわけである。
経済と人権や福祉等、その両者が相反して並び立たない以上、どちらかが駆逐されてしかるべきである。
経済が発展するのならば、それ以外のものは、ほとんどが隅に追いやられてしまうのではなかろうか。
つまり経済発展と、治安維持の発令や反政府運動の抑圧と禁止、マスコミの国家管理、自己責任論の常態化..等はセットになっているものと考えて差し支えないのではなかろうか。
のちのちにその問題点に気がついて声を上げたところで、「え、何?そんなこと聞いてない?いやぁ、お金儲けしておいて、今更そんなことは通用しませんよw」というのが関の山ではないのだろうか。
疑念は募ってゆく。
つまり、日本のシンガポール化とは、「憲法の改正を入口として、国民の主権を制限し、基本的人権を制約し、メディアを統制して、労働組合を危険思想団体として排除し、超富裕層が全てにおいて独占するシステムの構築」だと、その論文では結論づけられていた。
自分的には、そんな不自由な社会はゴメンである。
その時にはすっぱりと日本人をやめるつもりだ。
「無くしてしまうことは簡単だが、それを取り戻すのはかなり難しい」
「なくしたものの大切さは、なかなかわかりにくく、それらは後々気がつくものだ。で、気がついたときにはもうどうしようもなくなっている」。
先人たちの教えにあるように、まさにそんなものだと思う。
自分は知らなかったのだが、「シンガポールに学べ」というスローガンが、経済界には横行しているそうだ。
マスゴミによれば、それは一種のブームということらしい。
また、そうマスコミがこぞって吹聴しているということも併せて書いておきたい。