「人間は社会的存在だ」と、昔、聞いた。

たしかに、自分一人、絶海の孤島で生きているだけでは、

人間として存在しているとは言えないだろう。

いや、たとえ大都市の中、雑踏の中で生きていても、

人との繋がりが希薄で、社会の仕組みの中で生きていなければ、やはり、

とても孤独感に苛まれるのだから(若き日、それに近いこともありまして、)

たしかに、人間は「社会的存在」となって初めて、生きていると言えることは、

間違いないことですね。

 

ところで、近頃ね、

その自分を取り巻く「社会」、自分が関りを持つべき「社会」というのは

どの辺までの広がりのことを言うのだろう、と思うことがよくあります。

 

朝、目覚めて顔を洗って、朝食を摂りながらテレビのニュースを見ては、

「また、ひどい事件や事故が起こったものだな~」と慨嘆したり、

「まだロシアはウクライナ侵攻を止めないのか、いい加減にしろ」と怒ったり、

「災害が起こったところは気の毒だな~」などと心を痛めたりしながらも、

次の瞬間には、「お、もう出かける時間だ」とそそくさと着替えをします。

社会で起きていることに、怒ったり、慨嘆したりするものの、

テレビを消すとともに、一応それらのことは終了して、

自分にとって、目の前の自分のやるべきことに取り掛からねば、というわけです。

 

いろいろな出来事が回りで起こってはいるが、それがどんな大事件でも、

直接自分の身に関係ないことだったり、遠い所の出来事であれば、まずは、

「そろそろ腹が減ってきたな、昼には何を食べようか」ってなもんです。

 

「人間は社会的存在である」とは言うものの、

その「社会」というのは、ほんの身の回りの、自分にとってとても大事な

人間関係や、約束事や、自らが生きるために不可欠な仕事や、楽しみがある、

狭い狭い「社会」なんだね・

 

誰もが、自分自身の生活を守り、生きていくことに一生懸命であって、

テレビ報道で知る、日本で起こっていることも、世界で起こっていることも、

テレビを消すと同時に、あっという間に頭は切り替わって、

自分が今日すべきこと、やりたいことをやるしかない、

日々、自分を生きるしかないのだね。

 

人間は「社会的存在」には違いないのだけれど、

その「社会」というのは、極めて狭い、身の回りの「社会」であって、

自分に関わりの及ばないことであれば、実は「知ったこっちゃない」という、

極めて「狭い社会」の中の、極めて「個人的存在」なのだなと、

いささかの忸怩たる思いを自覚しながらも、自分を振り返っている

近頃なのであります。(^^;)